善悪二元論の話
さて、そんな事を考えていると、ペトロニウスさんの物語三昧の所で善悪二元論・ラスボスについての記事があった。
大抵の物語の王道は勧善懲悪である。悪いモノを正義が倒すという構図。
とはいえ、元々ガノタである私の書く物語は、実は「善と悪(Justice と Heel)」という二項対立であることが少ない。
例えば、ガンダムの地球連邦とジオン公国の対立を見ていこう。
地球連邦は既得権益に怠けて宇宙に住むコロニーの民を植民地としてしか扱わず、民主主義も衆愚政治に陥っている。
一方、ジオン公国は宇宙に住むスペースノイドの人権を守るために地球連邦からの独立を宣言した。
しかし、地球連邦は植民地が勝手に独立をしては困るので戦争を仕掛ける。
これだけ見れば明らかに「悪(Heel)」は「地球連邦」だ。
しかし、主人公アムロは地球連邦側の人間である。それはたまたま地球連邦の側に父親が所属していたから、と言うことだが、上層部が腐っているにも関わらずアムロ・レイは戦う。そして、戦っていくウチにジオン公国のランバ・ラルと出会い、相手がとてもいい人達だと言うことも知る。
それでも、アムロ・レイがジオン公国ではなく地球連邦の為に戦ったのは結局の所は元々その組織に所属していたから、と言える。
まあそれだけでなく、ジオン公国は実質ギレン(ザビ家)の独裁政治であり、それは間違っていると思ったから戦った訳だが――それでもやっぱりアムロは何が正しいか、というよりは自分たちの仲間を守るために戦っただけだと思う。
実際に連邦軍側の士官・下士官はみんな人間性は最悪で、逆にジオン軍側の軍人達は皆祖国のために必死で頑張る人間性の高い人達が多い。
こんな話を78年にアニメとして作り上げていた富野監督は本当に天才だと思う。
続編のΖガンダムでは戦争に勝利した地球連邦がまたスペースコロニーを植民地として扱い、圧政を敷いたからレジスタンスの「エゥーゴ」に主人公が入り、更にジオン軍の残党が入り乱れるという泥沼の戦いに発展してしまう。
結局の所何が言いたいかというと、「人間同士」で戦った場合は「善と悪」の戦いには決してならないと言う訳である。
人間同士の戦いで、最大規模はやはり「戦争」である。
しかし、戦争の場合どちらが「正義・悪」などはない。
せいぜい「A」と「B」の主張があれば、「A」の方が自分にとって得だから「A」を支持する。でも、「A」の主張は完全に正しいモノではないので反発が出る。そこで、政府側は「これは正義の戦いだ」とプロパガンダを流して国民になんとなくそう思わせる。
で、ガンダム以降の作品もその多くが「相手は完全に悪い訳ではない。正しい面もある。しかし、主人公側にとって不都合な面が多いので敵とさせて頂きます」と言う論理で戦うことになる。
そして、人外が相手の場合はこの「相手が完全に悪い訳ではない。正しい面もある」と言う点がすっぱり抜けて「主人公側にとって不都合な面が多いので敵とする。お前等は悪だ!!」の論理で戦う。
しかし、ここに一つの問題が出てくる。
「主人公側にとって不都合」というが、「主人公の正しさ」は誰が証明するのか。
例えば、『武装錬金』の世界を逆転して考えれば、パピヨンの様なこのままでは不治の病で死んでしまう人間にとっては例え人食いの衝動が残ったとしてもホムンクルスとして転生した方が幸せなのかも知れない。あまつさえ、彼はそのまま食人衝動すら克服し、人殺しをしない人外の化け物として人類と寄り添って生きていくことになる。
ここら辺に実は和月先生の黒さがあると思う。パピヨン=蝶野攻爵は何十人もの人を、肉親すらも喰い殺した人外の化け物だ。そして、このまま生きていけば更に人を殺すからと言う理由で主人公武藤カズキは一度はパピヨンを殺す。だが、パピヨンは復活し、しかも人食い衝動を抑え込んだ。
そして、武藤カズキと蝶野攻爵(パピヨン)は再び戦い、またカズキが勝利するが、もう人を殺さないと約束するなら、新しい人生を送ってくれと言う。
本当ならば、許されることではない(パピヨンが過去の罪を贖えたとは言えない)のに、世界を救った武藤カズキがそう言うなら、と言う感じで周りの人間は許す。まぁ、正確には罪を贖い続けるならば――許すという内容だが。
では、武藤カズキの正しさって何か、と言えば――「Fate/stay night」の衛宮士郎と同じく自分の事なんて無視して他人を守るためだけに戦ってきたという所だろう。彼はずっと他人の為に戦ってきた。
とはいえ、最終章で自分が追われる立場になり、自分が死なず、そした他人を守るために戦うのだから「Fate」の「アーチャー」とはベクトルが異なるだろう。彼自身は自分が死ぬのは怖いのである。
ジャンプの連載の最終回で彼が唯一漏らした弱音は
「みんなは俺が守る……だから――だれか俺のことを守ってくれ」
と言うものだ。自分が死んだ方が世の中の為になる。だが、自分も捨てきれない。実に人間らしい。武藤カズキは人間として立派なので、みんなが結局彼を救ってくれるというラストだ。
で、主人公が立派じゃない人間の場合は――『エヴァンゲリオン』のシンジのようになる。本当に自分が正しいのか分からなくなる。
……なんかかなり話が逸れた気がする。
結局『善悪の二元論』が求める所は過去の哲学者の動きに近いと思う。つまりは、「この世には絶対不変の真理があるんだ」と信じて真理(イデア)を探し求めるのと同じで、『絶対の正義』が『絶対の悪』を倒すからカタルシスがある。人は完全なる真理を求めている。
けれど、『絶対の正義』と『絶対の悪』もないことに気付かされたのでどうしようかみんな暗中模索している。取りあえずは、『正義っぽいモノ』と『間違った正義に準じているモノ』の戦いが主流となっている感じだろうか。
つまりは「不完全な正義」と「不完全な正義」の戦いである。悪の秘密結社も昔は「世界を支配して思い通りにしてくれるわー!」と戦っていたのに、最近では「このままでは人類は間違った方向にしか進まない。我々が支配し、正しい方向へと導くのだ」と主張するのである。
しかし、幾ら彼らが「このままでは地球は自然破壊が進み、地球温暖化、水質汚濁、海面の上昇、と地球は大変なことになる!このままでいいのか!!」と主張しても、主人公達は「でも、人類ならきっとなんとか出来るはずだ! 俺達は信じてるー!」みたいなことを言って敵を倒すのである。
結局、敵役が出してきた問題提起は放置してしまうのだ。もしくは――何か奇跡が起きて敵役の問題提起が解決されるのが最近の流行だろう。
最近だと――サンデーの『ハルノクニ』がそうか。
この話は日本を真の独立国にするために軍事力とかを持とうと日本の総理大臣が画策するのだが、結果的には主人公達に阻まれる。
『日本はこのままだとアメリカの属国同然で、真の一等国になるためにはクーデターも必要だ』(筆者要約)
みたいなことを総理が言うのに対し、主人公側は
『別に誰かの一番にならなくても、平凡な人生でも人間は幸せに生きていけるよ』(『筆者要約』)
みたいなことを言う。
すると総理は
「くだらん、全く持ってひどい茶番だ。
こんなひどい茶番をこれ以上続けるのはまっぴらごめんだ」
――榊総理
と言ってピストル自殺する。国一つをどうやって素晴らしくしようかと悩んでいたら貧しくても人間幸せに生きていけるよと安易なヒューマニズムで解決されて、相手にするのもバカバカしくなってしまったという結末だ。
こうして主人公達の勝利に終わるが、なんとも後味の悪い話である。
ちなみに、「ハルノクニ」そのものは話としては最後に凄く盛り上がるだけの話で、正直話全体としてはすごく面白い!と言えるモノではないのでオススメはしない。
それはともかく――。
不完全な正義の対立ではカタルシスも不完全に終わる。
自分が正しいのかどうかの証明も面倒くさい。
人間同士の内ゲバも不毛だ。
ならどうしたらいいのか?
一つは、私が昔書いた小説の様に、「戦い続ける」という結論。
永遠に戦い続け、切磋琢磨していくことでいつか答えが見つかると考える。
これは三国志の諸葛亮孔明の「天下三分の計」と似た考え方だ。
実はこれは問題の先延ばしでもある。
諸葛亮孔明は誰が一番か決めるのは面倒なので結論を先延ばしにし続けて均衡を保とうとしたとも言える。
後、『スレイヤーズTRY』も同じ結論だったはず。「善と悪は互いに戦い、高めあうことこそ重要なのだ」という結論のはず。
もう一つはスケールを一つあげた視点に立つ。
例えば、「人間同士の戦いなんて、宇宙から見れば大したことないですよ」とか「受験の悩みなんて人生全体から見れば大したことないですよ」とか「地球が一つ壊れるかどうかなんて宇宙全体から見ればどうでもいい」とか「人一人殺すのなんて戦争で見ればどうでもいい」の様な話である。
とはいえ、これは論点のすり替えでしかないし、余程の聖人君子でなければそれで納得できない。こんな事が言えれば仏教でもかなり徳の高い僧侶になれるだろう。
と、色々考えてもやっぱり答えは浮かばなかったので今日はここら辺でギブアップします。