欠陥品こそ美しい。

 哲学さんは哲学する人である。
 なんで自分で『哲学』さんなんてハンドルネームを名乗ってるかと言えば、生まれてきた時からこういう名前で、住所録にも、戸籍にも哲学と名前が記されているからだ。
 最近は変な名前を付ける親が多くて子供が気の毒だと私はよく思うが、私の名前は実によい名前だと親に感謝している。もっとも、この名前を考えたのは親戚の女の子らしいが。(父の従兄弟の娘らしい)
 私は随分と性善説に立っている――などと指摘されて自分ではやや意外に思った。
 性善説とは――つまりは人間の本質は善にあるという考え方だ。
 けれど、私の基本的なスタンスは人間は聖邪混濁・善悪を飲み込んでこそだと考えるものだ。
 人間は必ず良い面と悪い面を持っている、と考えるのだ。
 人間は欠陥があるからこそ、美しいのである。
 西洋は基本的にシンメトリーとか、黄金比とか、均整の取れた完璧なものを美しいとする。
 言ってみれば、満月は美しいが、満月に雲がかかるというのはちょっとどうか――と西洋は考える訳だ。
 けれど、東洋は違う。
 満月や三日月も美しいと思うが、そんな月に雲がかかるのもまたいとおかし、と感じるのである。
 晴れた日もいいが、雨の日もそれはそれで風情のあるものだ、と感じることが平安時代の日本人には出来た。
 ……しかし、月に雲がかかったり雨がふるのも風情があるって書いてたのは何だったか思い出せない。方丈記枕草子だった気もするが――また後で調べよう。
 何にせよ、不完全なモノほど面白いと思う。だからこそ、この世はかくも素晴らしいというものだ。
 人は苦悩するからよい。
 世界に困難があるから、人は前へと踏み出せるというものだ。
 そもそも、かつて私は初めて小説を書き始めたのは小学六年生の末期。実際に書き上げたのは中学の終わり頃。
 内容は以下の通りだった。

 ある時、偉大なる少年魔法使いは時間を逆戻りし、この世の悪の感情を全て封じることに成功した。しかし、それによって人類は哀しみなどの負の感情と同時に喜びなどの正の感情も失った。そして、人類は機械的に生きるだけになり、衰退していく。
 少年は後悔し、封じられた全ての悪を解放する。世界は混乱に見舞われるが、なんとか復興しようと活き活きと人生を送り出す。倒してもなくならない悪と戦いながら、魔法使いの少年はそれでも哀しみと喜びを取り戻した人類を見て満足しながら終わりのない戦いの中に埋没していく――。

 この話の何が酷いかって、この物語にはラスボスがいない。
 主人公は最初にこの世の悪を全て封じるからこの世から敵がいなくなる。しかし、敵がいなくなったせいで人類はつまらない人生を送るハメになる。
 で、人生を面白くするためにまたこの世の悪を全部解放して、「戦いのなくならない世界で楽しいなー」で物語が完結してしまうところだ。
 つまり、ジャンプの打ち切りみたいに「俺達の戦いは終わらない!!」がエンディングなのである。
 いや、見方を変えよう。大抵の日常ものの話は「僕たちはこれからもこの日常を生きていく」みたいな感じで「終わらない日常」を提示して終わる。
 俗に言う、「めでたしめでたし」というやつである。
 それに対し、この物語は「これからも争いの絶えない日々が続く。でも、それは幸せなんだよ」で終わってしまう。
 ここら辺は私の歪んだ意識がかなり露出している。
 平和になれば、人間は腐敗しやすい。逆に、尻に火がつけば頑張るってことである。
 某『忍空』のアニメのOPの歌詞でも「楽しいことでも、毎日続いたら――それは退屈と変わらないね」、と言っている。人間は常に変化を求めるモノ。
 で、平和っていうのは基本的に「変化」に乏しくて、だから、過剰な変化である「戦い」の方がいいって訳である。
 しかし、ここでいう「戦い」というのは何も「戦争」とか物理的なものだけではなく、例えば「バスの順番で割り込みしたヤツと口喧嘩した」とか「上司とそりが合わない」とか「夫婦でどこに旅行に行くかで喧嘩した」とかそんな些細なモノでいいのである。そういう「人間同士の諍い」があるから人生は楽しいと考えるのである。
 まあこれは、現在進行形で波瀾万丈な人生を送っている私の思いこみかも知れない。だが、何もかも上手く行く人生ほど詰まらないと私は思うのである。
 なかなかのマゾい話だ。しかし、私はどちらかというとサドで、他人を虐めるのが好きな人間なので、他人を虐める理由を正当化している可能性もなきにしもあらずだ(笑)

 既存のモノに対してそれが本当に正しいのか、と考えるのは哲学の分野の中では主にフッサールの「現象学」の考え方。
 そもそも、哲学者は好奇心の塊で、何でも疑問に思う。
 賢者って言うのは結局の所全てを疑う存在のこと。好奇心とは何かを疑問に思う事だ。何故鳥は空を飛ぶのか。何故空は青いのか。何故青という色が存在するのか。賢者は全てを疑い続け、何も信じる事が出来なくなる。
  愚者は全てを信じる。悪意ある者も、好意ある者も全て受け止める。自らに殺意ある者にさえ愛を囁く愚かな者だ。
 では、人は全てを疑う賢者になるべきか。そんなことをすれば何も信じられず、孤独になってしまう。ならば、愚者になればいいのか。それでは、本当の事が何も分からなくなってしまう。
 では、どうすればいいのか。
 この問題を投げかけ、一つの答えを出したのが、秋田禎信の「エンジェル・ハウリング」(全10巻)。前にも書いたけど。
エンジェル・ハウリング〈1〉獅子序章‐from the aspect of MIZUエンジェル・ハウリング〈10〉愛の言葉‐from the aspect of FURIU
エンジェル・ハウリング〈2〉戦慄の門―from the aspect of FURIU

エンジェル・ハウリング〈3〉獣の時間―from the aspect of MIZU

エンジェル・ハウリング〈4〉呪う約束―from the aspect of FURIU

エンジェル・ハウリング〈5〉獲物の旅―from the aspect of MIZU

エンジェル・ハウリング〈6〉最強証明―from the aspect of FURIU

エンジェル・ハウリング〈7〉帝都崩壊1―from the aspect of MIZU

エンジェル・ハウリング〈8〉帝都崩壊2―from the aspect of FURIU


エンジェル・ハウリング(9) 握る小指――from the aspect of MIZU

 なんにしても、私は賢者となるにしてはどうにもお人好しだなぁ、と自覚した次第だ。愚者と賢者のバランスは難しい。
 しかして、私は性善説性悪説とどうこういうよりも、楽観主義なのだなぁと勘違い君劇場を読んで改めて自覚した。
 楽観主義はなかなかの迷惑モノですな。

なんでも悲観的に考える人と、なんでも努力すれば何とかなるという人――勘違い君劇場