そんな訳で

 『聲の形』原作の方を読み終わった哲学さんです。
 哲学さん、マガジン読者ではなかったので連載中は読んでなかったんですよねぇ。
 見る前は重い話だから絶対心にダメージを受ける、と周囲に聞かされていたけれども見終わった時は意外にさわやかな気持ちしか残ってませんでした。
 もちろん、序盤はやや胃がキリキリするような話が進みますけれど、そこはまだ耐えられるくらいで、収まってくれました。
 むしろ、見終わった後には大体映画館の中で感動を消化しきって出てきた後は特に言うことはないなー、と思ったくらいです。
 しかし、なんか「右耳が聞こえなくなる設定に意味あるの?」的なのを見て「ええっ! そこ大事だろ!!!」と謎のエキサイトしました。(アホや
 まあ解釈が正しいかどうかは分かりませんが、こういう見方もあるんですよ、と思って頂ければ(笑)



 あと、関係ないけど、硝子ちゃんの名前が「梢子」になってたり「祥子」になってたりするのを見受けます。
 めんどくさかったら「がらす」って書けば「硝子」になりますよ! 「にしみやガラス」で変換が楽に出来ますよ!(大きなお世話
 そんなことを思う哲学さんでした。

<劇場版『聲の形』における、ヒロインの右耳>

 すぱっと原作設定は一旦忘れて欲しい。劇場版だと時系列が弄くられているからだ。
 劇場版では、原作にないシーンとして、ヒロインの西宮硝子とお婆ちゃんが病院で医師の報告を聞くシーンがある。
 そこではお婆ちゃんが顔を曇らせてシーンは切り替わる。
 ここでおそらく西宮硝子は右耳が完全に聞こえなくなった、あるいは手の施しようがない、と診断を受けたに違いない。
 小学校時代の西宮硝子は少なくとも両耳に補聴器を付けていたので、難聴ではあるが音を認識出来ていたのだろう。それが、半分失われてしまったのだ。


 そこで次の日西宮硝子はどうしたか。
 どうしたかって、あれだよ……気合い入れたんだよ!!!!
 こう、ゆずるが朝起きてふっ、と硝子を見たら、なんと髪をしばってポニーテールにしている姉が居る訳ですよ!!!
 え? 何? どうしたの? と驚く譲るを尻目にばしっ、と身支度を調える西宮硝子!
 これは何かって、同じ京アニの『響け!ユーフォニアム』でもそうだったけど、決意の表れですよ!
 そもそも、耳の聞こえない彼女にとって、耳はコンプレックスの塊だっただろう。
 だから、耳の見えないような髪型にしていた――可能性が高い。(原作版の母親はそう望んでいなかったが)
 耳を晒せば、否が応でも補聴器が衆目に晒されるし、それだけで無遠慮で好奇な視線を受けるかも知れない。
 そんな隠すべき耳を彼女ははっきりと表に晒して、そして口紅のように紅い、可愛らしい補聴器をつけて主人公石田くんに会いに行くのだ!!!
 これはまさに戦闘態勢。彼女にとって、紅い補聴器は、ある意味耳の聞こえない自分を受け入れ、前へ進む決意の表れなのかもしれない。あるいは、勝負下着だ! そう、勝負下着だよ!(※二回言った
 そして、出会った石田くんに彼女はいつもの手話ではなく、口で、言葉で話しかける。
 石田くんが「え、手話しようよ」と話しかけるも、かたくなにそれを断り、ともかく自分の拙い声で必死に想いを伝えようとする。
 おそらく右耳が聞こえなくなったことで、将来的に両耳とも聞こえなくなる可能性があるとはっきりと自覚したのだろう。
 ただでさえうっすらとしか聞こえない音が聞こえなくなってしまう前に、僅かでも彼の音が聞こえるうちに、彼女は拙いながらも、手話ではなく、他の周りの人間と同じく自分の声で気持ちを相手に伝えようと決意したに違いない!
 まだ、石田くんの声が聞こえるうちに、小学校の時できなかったことをしようとした。

(左耳の紅い補聴器は彼女の決意の表れ)



 とはいえ、残念ながら結果は玉砕。
 それっきり、彼女はまた髪型をいつもの耳が隠れる状態に戻すことになる。(※でも、その後ずっと髪の毛の下に勝負下着の紅い補聴器があると思うとよくない?)
 次に彼女が耳を晒すのは家族で花火大会に行った時と、全てが終わった後、一緒に学園祭に行った時だ。
 花火大会の時は、浴衣に着替えていたのもあったのだろうけれど――おそらくは全てを諦めることを決意した彼女が、最期の思い出を彩る為。(また、ベランダに出た時は補聴器を外している)
 学園祭に行った時は――全てを受け入れたから、と思う。



 原作だと、西宮硝子がポニーテールにするのは「友達ごっこじゃないの?」と植野に指摘された後である。
 しかし、劇場版だと、植野と再会するのはポニーテールにした後だ。
 少なくとも劇場版においては、彼女が右耳の聴力を失ったことにはっきりと意味がある。自分の人生を見つめ直し、向き合う為のきっかけになっていた……はずだ。
 とはいえ、そこから植野と再会して色々とひっかき回されてそこら辺が後退してしまうのだけれど(笑)
 なんにしても、それまで耳を隠していた彼女が、耳を晒すきっかけになった、というのはとても大事だと思う。
 あと、キャラクターとして、紅い補聴器をつけた西宮硝子はかわいいと思う。

<前置き>

 劇場版『聲の形』の感想などを色んなサイトで読んでたら、「ヒロインの右耳が聞こえなくなる設定をなんで残したか分からない」みたいな意見が合った。
 哲学さんは驚いた。
 あの設定、劇場版で一番重要だろう、て思ってたくらいの認識だったからだ。
 でも、今日遅ればせながら原作を読んだけど、「……ああ、原作では設定の使い方が違うのね」と納得。
 とはいえ、原作設定に引きずられて劇場版側の意味が分かんないとそれはそれで勿体ないと思うので、哲学さんなりの解釈を述べていく。
 あくまで哲学さんの個人的な解釈なので、コレが絶対正しい訳ないのでそこんとこよろしく!!!

<そんな訳で>

 どうも、お久しぶり! 劇場版『君の名は。』を見に行って感動できなかった男、哲学さんです!(え?
 みなさんはオラクルという言葉を知っているでしょうか。
 日本語では啓示、とか天啓とか訳されますね。
 西洋では神からのありがたいお導きである、と言われますけれども、哲学さんは奇人変人なので滅多にないけれども、稀にオラクルに似たようなことが起きます。
 ただ、それは神からの、というよりも経験則からやってくる超感覚って感じですね。
 日常生活において、幼少期からそんなことが哲学さんの身に起きることは決して不思議なことではない、的な感じで育ってきたのですけれど、こないだ劇場版『君の名は。』を見に行った時のこと。
 冒頭のいくつかのシーンの所で既に前兆が始まり、更にはOPが流れた時にはもう時既に遅しで哲学さんの脳裏にビキビキビキッと"予感"が降臨して「あー、この話はたぶんこれこれこんなかんじの筋道でこれこれこういう話になるだろうな。あと、冒頭のシーンはたぶんこれこれこういう意味に違いない」て浮かんできたのですよ。
 くっそ、この歳になってオラクルが降ってくるとは――と思いつつ、そこでまるで前世の記憶があるがごとく物語のエンディングが見えてしまったのですね。開始数分で。
 おかげでそっからラストまではずっと劇場版『君の名は。』という作品を詳解に精査・解析しながら見てました。
 自分の脳内アーカイブにある過去の名作とかを参照しながらひたすら分析・分析ですよ。
 全部見終わった後、まったく感動してない自分に気付いて、「しまったぁぁぁぁぁ、なんで初見でそんなつまらん見方をしたのだぁぁぁぁぁ」とメッチャ後悔。
 二回目三回目の視聴ならいざ知らず、貴重な物語との"初めての出会い"の機会をふいにしてしまった訳です。
 実に勿体ないことをしました。映画の処女体験を自分の直感にネトラレされるという最悪の結末です。
 いやだって、タイトル聞いただけで「あ、これ、ラストは『シュタインズゲート』のごとく、映画『バタフライエフェクト』みたいになる奴や!!」とか誰しも思うじゃないですか。その時点で分析回路切っておくべきでしたね。
 まあ、その後脳内にがっつり焼き付けておいた『君の名は。』の記憶映像をRADのサントラ聞きながら無限ループで脳内再生してテンションを調整したので、今ならいつもう一回『君の名は。』を見に行っても感動出来るようになってます!!(←そういう問題だろうか)
 この経験を通して分かったことは、プッチ神父が思い描く天国はクソだってことですね。あいつは邪悪。はっきりわかんだね。
 いや、哲学さんネタバレされて作品を見ても楽しめるタイプの人間だったのですが、まさかそんなことになるとは――て、まあそんなことはどうでもいいですね。
 そんなことよりも、冒頭でも言った通り、
「これ絶対『ストーンオーシャン』(ジョジョ)と『君の名は。』を絡めて語るべきだよ!」
「誰か語れよ!」
「誰か語ってくれてますよね?」
「え……誰も語ってないの?」←(三葉が瀧くんに忘れられてた時みたいな顔)
 と言う話ですよ。
 おかげで久々にブログ書いちゃったじゃないですかーーーーーー!
 最近、twitterで短文散らしに慣れてしまって、ここまで長い記事書くの久々だよっ!!!!! 小説でもないのに!!!
 でも、明日映画『聲の形』を見に行くことが決まったので、『聲の形』を見たら絶対テンション下がってこんな記事書けなくなることが目に見えてたので……まあ書くしかなかったですね。
 なにはともあれ、『君の名は。』には力を貰いました。エネルギーですよ。パワー。フォース。(ルー大柴
 未だに小説家になれてない哲学さんですが、改めて絶対傑作を書いてみんなをバンバン感動させてやらぁっ! と決意を新たにする哲学さんでした。(←相変わらず志だけはでかい)
 相変わらず勢いで書き殴った文章ですが、楽しんで頂けたら幸いです。
 ではではっ!

<劇場版『君の名は。』について>

 今更だけれど、『君の名は。』についてこんな読み方をするのは邪道だ。
 もっと青春とか、甘酸っぱいものについて感じ、消費するべきだ。
 SF的な話とか、時間トリックなんて、些末なガジェットで、お話の本筋はそんなところにはない。
 一組の少年と少女の出会いの物語をニヤニヤして見守ってやればいい。
 でも、哲学さんが語りたいから語ろう。


 すぱっと本筋を飛ばして結論を述べればティアマト彗星という危機があって、二人はそれを乗り越える。
 でも、悲しいかな、それは時間軸を変え、世界の歴史を変える大事だ。
 様々な要因はあるのだけれど結果的に、瀧くんと三葉は互いの存在を記憶の中から忘れてしまう。
 ポイントは、二人とも記憶をなくしてしまうこと。
 エンポリオ少年は、唯一人だけ改変前の世界から生き残ったので前の世界の記憶を持っていた。だから別人に転生していたとしても、相手のことがはっきりと分かった。
 彼と同じように、タイムスリップものやループものは主人公だけは今までの記憶を保持していることが多い。 
 細田守監督の『時をかける少女』もその類だろう。
 これを明確に能力として持っているのが『シュタインズ・ゲート』の岡部倫太郎だろう。リーディング・シュタイナーがそれ。後、『サクラダリセット』の主人公の浅井ケイもリーディングシュタイナー系の能力者だ。どれだけ世界が改変されても自分だけは消えてしまった過去の人々の行いや想いを忘れない。
 でも、瀧くんと三葉は違う。二人は行ってきた行為そのものは残っているし、存在そのものは維持されているが相手のことは覚えていない。
 ただあるのは喪失感だけ。
 東京という何百万人もの人間が行き交う街で、果たして出会ったとしてもお互いのことなんて認識出来るはずがない。
 それに、出会ったとしてどんな言葉をかければいいのだろうか。
 その答えは劇中にある。
 三葉がとある事件をきっかけに東京に行った時のことだ。
 出会えるか分からない。出会えたとして、なんと声をかければいいか分からない。
 けれども、三葉には確信があった。
 もし出会えばきっと、すぐに互いのことが分かるだろうと。
 そして奇跡は起こる。
 とある電車に乗る瀧くんをみつけ、三葉は走り出す。
 そして、はにかみながら、嬉しそうに声をかける。
「瀧くん……瀧くん」
 相手のことが思った通りはっきりと分かったうれしさと出会えたといううれしさに満ちた彼女に――しかし、瀧くんは。
「え? 誰?」
「覚えて……ない?」
 絶望。
 彼女の中にあった確信が崩れた瞬間。
 彼女は失意のまま家に帰り、髪を切る。
 そして彗星を見上げながら死んだ。
 しかし、その失敗には理由があることが後で明かされる。
「お前さぁ……知り合う前に会いに来るなよ」
 彼女の死後に起きたさらなる奇跡の中で、『初めての再会』をした時に瀧くんは笑う。
 誰彼時の中、二人は語り合い、そして別れる。記憶を失って。
 それでも、二人の出会いが生んだ想いが苦難を乗り越え、世界を変えるのだ。
 そして八年(あるいは十一年)もの時が過ぎ、彼らは出会うことのないまま、すれ違い続ける。
 けれども、ラスト。
 併走する電車の窓で彼らはもう一度再会することに成功する。
 目と目が合う。
――どんなことがあったって、出会った瞬間に分かる。――
 三葉の確信が現実のものとなる。
 二人は電車を飛び降りて、街を駆ける。
 別々の駅で降りた二人が、必死に東京の街を歩き、さっき通り過ぎた電車に乗っていた相手を探す。
 そして、出会う。
 だが、なんと声をかければいいのか。
 二人が共有するものは何もない。どこに住んでいるかも、どんな生き方をしてきたのかも、何も知らない。
 でも、きっと相手が自分が探し続けてきた運命の相手なのだと、それだけは分かる。
 言葉が見つからないまま、二人は再びすれ違う。
 昔、知り合う前に東京で出会った時は三葉の方には記憶があったが今はない。
 二人はすれ違い、通り過ぎ――――――振り返る。
「あの、俺達、昔どっかで会ったことが会ったと思います」
 精一杯の勇気を振り絞った彼に、彼女はほほえむ。
「……私も」
 二人は確信する。
 互いに心が通じ合えたのだと確信する。
 そして二人は互いに訊ねる。
 申し合わせたように、口を揃えて訊ねる。
「「君の名は?」」



 『出会い』は『重力』。
 『引力』、すなわち『愛』っ!!
 あまり多くを語れば、大切な物が端からこぼれ落ちてしまうから哲学さんとしてはこれ以上あまり言葉を重ねたくない。
 でも、この二つの物語を並べて、何か感じいることはないだろうか。気のせいだろうか。
 『ジョジョ』が未だに先を行っている面もあれば、『君の名は。』が更に到達出来た地点もあると思う。
 これを言葉にしてしまうのは野暮と言う物だけれど、それでもあえて言えば――。
 二人の人間が通じ合い、通わせたものが消滅して、全てを失って引き裂かれたとしても、それでももう一度『出会える』と言う奇跡。まさにシュタインズゲートの選択!
 ジョジョはまだエンポリオ少年の方は覚えていたけれど、こちらは互いにお互いのことは忘れてしまっている。難易度はエンポリオの時よりも上がっている。
 でも、もう一度出会えばきっとわかり合える。
 人々の出会いは『重力』であり、『運命』。
 運命に祝福された二人はきっと、もう一度出会える。そして、わかり合える。
 そんなことを劇的に、素晴らしく分かりやすく描いた『君の名は。』はやっぱりいい作品だったと思う。
 そして、この作品に出会えてホントによかった。
 そんな所で筆を置く。

<ジョジョの奇妙な冒険第六部『ストーン・オーシャン』について>

 では語ろう、まずは『ジョジョ』の第六部『ストーン・オーシャン』について。第六部は難解な話が多かったりで全体的に人気が少ないと言われたり、今でもいろいろな解釈が飛び交ってて画一的な評価ってのは難しい。
 だから、これはあくまで哲学さんの解釈だと思って頂きたい。
 で、簡単に言うと、つまりはこういうこと。

 宇宙は一巡したっ!
 ラスボスであるエンリコ・プッチ神父の念願は成就し、人類はついに天国へと到達した!!!
 これは恐るべきことであるが、しかし、プッチ神父はこれを人にとっての『幸福』であるとした。
 果たしてこれはどういうことか。

 すまない、テンションがあがりすぎて話を先走ってしまった。整理しよう。
 ジョジョの第六部は空条承太郎の娘、空条徐倫(ジョリーン)が主人公の物語。
 ラスボスであるプッチ神父との激闘の末、主人公チームは全滅。
 プッチ神父の望み通り人類は新世界へと到達するのである。
 主人公チームの全滅というかつてないほどのバッドエンド。
 新しい世界とは――『天国』とは何か。
 ざっくりと言えば宇宙が一巡した先の未来へ、過去の記憶を持ったまま到達すること。
 ビッグバン仮説というものがある。
 宇宙とはビックバンという爆発によって拡大していくが、やがてそれは収束し、再び原初の宇宙に帰る。
 その後どうなるかと言えば、もう一度ビックバンが起きて、同じく宇宙の歴史が繰り返されるというものだ。
 訳が分かんなかったら、ラスボスの不思議パワーで宇宙が一回消滅してもう一回再構成されたと思えばいい。
 これだけならばまだいいのだが、プッチ神父が望んだ世界は人々がこれから起こる出来事をなんとなく知った上で生きることだ。
 強くてニューゲームであり、前世の記憶を保持したまま生きるというような物。
 ただ、別に前世の記憶があるからと言って未来は変えられない。前世で道を歩いていて転ける人間は転けるし、前世で交通事故で死んだ人間はもう一度交通事故で死ぬ。
 しかし、明日死んでしまうとしても、それをあらかじめ知った上で人生を過ごすのなら、人は『覚悟』を持って生きていけるし、一日一日を大事にするだろう、て話。それが人類の『幸福』なのだと神父は思ったのだ。
 末期ガンの告知に似てる気がする。
 それをジャマしようとしていた主人公とその仲間達をラスボスであるプッチ神父は歴史から抹消!
 因果が断ち切られてしまったため、その存在そのものが世界から消えてしまった。
 『一巡』した先の地球では、おそらくジョースター家の血統は存在せず、空条承太郎空条徐倫もいない。
 正義の味方は世界から消滅し、そこにあるのはエンリコ・プッチ神父という悪党が残ってしまった。
 世界も改変され、主人公達も全滅。
 後に残されたのは、主人公の旅についてきた孤児――エンポリオ少年だけ。
 DIOの代行者であるプッチ神父は因果を断ち切るため、空条(ジョースター)家に希望を託されたエンポリオ少年を倒しにやってくる。
 絶望的な状況下の中、互いに代行者である二人は戦い、色々あって、ともかくエンポリオ少年が勝つのである。
 かくて世界は守られた。
 パンドラの箱を開け、希望という厄災を人類すべてに振りまこうとした巨悪は倒れた。それによって『人々がこれからの未来を知ったまま生きる』状態は消える。
 世界は救われたのである。
 だが、今までのジョジョにおいて『正義』を貫いてきた血統、ジョースター家は消滅。
 世界を救う為に戦った人達は、その存在そのものが歴史上から消えてしまった。記録にも残っていなければ、誰の記憶にもない。文字通り、世界から消えてしまったのだ。
 孤児であるエンポリオ少年は、救われた世界でただ一人、孤独に荒野をさまようしかない。
 なんという悲しい結末だろうか。こうして世界が救われたというのに、その勇者が救われることはないのである。
 ……かと思われた。
 エンポリオ少年はアメリカの荒野をさまよい、そして一人の女性と出会う。 
 それは歴史から消滅したはずの、徐倫の仲間、エルメェスに似た女性。
 呆然とするエンポリオの前に更には空条徐倫に似た女性と仲間のアナスイに似た男性が現れる。次々と死んで、世界から消えてしまったはずの仲間らしき人間達が引かれ合うように集まってくる。
 彼女は名乗る。
「私はアイリン。彼はアナキス。(中略)……あなたの名前は?」
 彼らは宇宙から消滅したはずだった。
 空条徐倫と呼ばれた女性はもういない。仲間達ももういない。
 でも、エンポリオ少年には分かった。彼女の肩にある☆のアザをみて確信する。
 記憶も失い、名前も、姿も変わってしまって、別の人間になってしまったけれども――それでもまた『彼ら』は『出会った』。
 ジョースター家はなくなったとしても、彼らの『魂』は消滅しなかったのだ。
 もう、彼女はエンポリオのことを知らない別人でしかないのだけれども――それでも、万感の思いを込めて彼は告げる。

エンポリオです。
 エンポリオ
 ぼくの名前は……ぼくの名前は、エンポリオです」
 ただただ涙するしかない。切なくも美しいラスト。
 ジョジョの奇妙な冒険は、第一部からずっと正義の一族、『ジョースター』家の人々の生き様を描いてきた。
 そして六部のラストにて、『ジョースター』家そのものが消えてしまったけれど、たとえジョースター家がなくなったとしても、その正義や魂が消えることはない。
 彼らの因果はこれからも紡がれていくのである。
 引力、すなわち愛!! ジョジョ第六部っ完!!!!!



 ちなみに、ジョジョ八部では、二人の人間をこねくり回されて作られた人造人間が主人公で、血統もなければ、過去もない、完全に『作られてしまった人間』が主人公。主人公自身にはなんの因果もない。自分が何者かのアイデンティティが消失している状態からスタート。でも、元の人間が持つ過去や、因果が、呪いのように彼を襲い来る物語だ。荒木先生は更に先のテーマへ踏み出してて相変わらずすごいなぁ、と感心することしきり。
 なんにしても、今思い返しても、ジョジョ第六部のラストは圧巻だった。傑作。




 で、えーと、『君の名は。』の話をする? もう大体分かったと思うけれど。

<前置き>

 映画『君の名は。』すごくよかった。
 そしてある時ふと気付いた。これはジョジョと絡めて語るときっと面白くなるのではないか、と。
 ところがどっこい、ネット上で探しても探しても探しても、そんな感想記事は何処にもない。
 おいおい大丈夫なのか人類よ。
 そんなの絶対何かを損してるよ。
 そして、クッソめんどくさいけれど、世の中に欲しいものがなかった場合は自分で供給しなければならない。
 あーもー、めんどくさい。
 誰かがやらねばならないし、別にそれは哲学さんでなくてもいいのだけれど、哲学さんがやらなくてもいずれ、五年後、十年後に書いてくれる人もいるだろうけれど、今この時、このタイミングで書こうという『意志』を持つのは哲学さんくらいなようなので、ともかく語ろう。
 まあ、正直に言うと大した話じゃない。
 ネタバレするとこんな話だ。

 ジョジョの第六部を知ってる人ならば、このシーンを見ればピンとくる。
 ただ、それだけの話なのだ。
「キミの名は?」
 と問われたのならば、応えればいい。
 自らの名を。万感の思いを込めて。
 人の出会いは『重力』であり、『運命』と言う話。
 このシーンは涙無しには見れない。そんなお話。