ミクロとマクロの救済-セカイ系を振り返る-

 まずはこの動画を見て欲しい。

 悲嘆にくれる少女(「きみ」)に、「ぼく」が話しかけていく、とても素晴らしい感動的な動画。
 歌の歌詞にも沿っていて、とても感情移入しやすいと思う。
 では、合わせてこちらの動画も見て欲しい。

 こちらも同じ歌で、とても映像が美しくて、感動出来る動画だ。
 同じ歌で、別の映像――それはMADではよくあることなんだけど、この二つは決定的に方向性が違う。
 単純に、前者は「人対人」の「ミクロ」がテーマで、後者は地球という「世界」の「マクロ」がテーマになってる。
 勿論、歌自体は「ミクロ」の歌なんだけど、映像をマクロにしても、通じている。
 これはある種「世界」の擬人化だろう。「マクロの映像」を「ミクロの歌」を通すことによって視聴者に分かりやすく伝えている、と思う。
 多くの人は、たとえば「世界は素晴らしい、世界は美しい」的な美辞麗句を並べられても、あんまり感動できないと思う。対象が大きすぎて、視聴者から身近でなくなるので理解の外に行きやすい。勿論、ダイナミックな自然の映像を見れば「おおっ」と思うけれど、それでも体験を伴ってないと、それほど感動できなかったりする。
 ところが、そこで大自然や「世界」を「キミ」という人間フィルタを通して解釈することによってぐっと近づいて見ることが出来る。
 よくエコを訴えかけるようなポスターとかで、地球が泣いてる絵が書いてたりするのは、そうやって人々に親近感を与えるためだろう。
 やっぱり、人間は、人間の視点に立った方が分かりやすい。
 「世界を救う」という視点は分かりにくいので、「キミ=ヒロイン=世界」とすることによって、「ヒロインを救う=世界を救う」としてしまえば話が非常に簡潔になって分かりやすい。
 それを作品手法として成立したのがいわゆる「セカイ系」なのだろう。


 「キミ(ヒロイン)」を救えば「世界」も救われる。
 正直、ヒロインも救って、それと同時に世界も救うとか色々と難しいし面倒だ。
 そこで、「世界の宿命とかに囚われたヒロイン」を出して、何故かそのヒロインが世界を救うために孤軍奮闘してたり、生け贄にされたりしてて、そのヒロインを救うことによって「世界」も救われてしまえば万々歳だ。
 まあ、実際はそこまで上手く行かなくて、大抵話の終盤で「ヒロインを救えばセカイが滅びる」みたいに「ヒロインか世界どっちかしか救えない!」ことが多い。
 まあそこをなんとかやりくりして世界もヒロインも救えるように頑張るのがセカイ系の見所の一つでもあるんだけど。
 そして、そのヒロインの救い方が、たいていの場合は、ヒロインを認めてあげることだ。
 最初の動画に戻ろう。

 この歌は「〜は何?」と謎かけのように「ボク」が「キミ」に語りかける歌なんだけど……聴いてたら分かるけど、「〜は何?」と聞かれている「謎」の答えは「キミ」自身だろう。
 「キミ(ヒロイン)」は生まれてきてからその「謎」と一緒で、自分からは内側からしか見えなくて、死ぬまで一緒なのが確定している。そして、その「謎」のことを「キミ」は嫌いだと言って泣いている。もう一緒にいられないから消えて欲しいと泣いている。
 それに対して、「ボク」は外側から見ている。ずっと側でその「謎」を見つめてきた。だから、それがとても美しくて素晴らしいものだったんだ、と言葉を尽くして語りかける。
 でも、それでも「キミ」はその「謎」が嫌いだという。ただ泣いている。「半分しか知らないのに決めつけるのはよくない」と告げても聞いてくれない。
 じゃあどうするのか。
 答えはとてもシンプル。
 動画の5:00で、「ボク」は「キミ」に近づいて抱きしめる。
 そして、今までと同じく「謎=キミ自身」が素晴らしいことを語りかけるのだ。
 その瞬間――世界が色めきだし、輝き出す。
 「ボク」が「キミ」を抱きしめることによって、世界そのものが素晴らしいものに変貌していく。
 でもそれって、「世界」が変わったのではなく、「キミ」にとっての「世界」が輝かしいものになったと言うこと。
 そう、最初から「キミ=ヒロイン=世界」は素晴らしいものであって、「キミ」はその素晴らしさに気付いてなかっただけなのだ。
 「自分=世界」の素晴らしさを知ることはとても難しい。でも、それを知ることが出来れば――自覚することが出来れば、あるいはそれを忘れなければ、人間はそれだけで生きていけると思う。
 この動画はそういうことを表してると思う。
 これって、『化物語』の「忍野メメ」の「助ける? そりゃ無理だ。君が勝手に一人で助かるだけだよ、お嬢ちゃん」て言葉の通り。
 最後は結局、本人が気付くことに意義がある。
 それに気付かせるには、千の言葉を尽くすことよりも、実は強く抱きしめてあげることが重要なのだ。
 そう言えば、抱きしめて解決するのはこのPVも一緒。

 こっちは呟いてないけど。
 後、思い出したのは小説『サクラダリセット4』に収録されている短編『ホワイトパズル』。
 『ホワイトパズル』も、この動画と一緒で、幾ら言葉を尽くしても、彼女が消えてしまいそうになり、だからこそ、消えないでくれと、側に居てくれと強く抱きしめることによって解決する。


 さて話が言ったり来たりして申し訳ないけど、またセカイ系の話に戻る。
 物語に触れてる人間て、「ヒロイン」も救いたいし、「セカイ」も救いたい――と考えると思う。
 だから、主人公が――カッコイイヒーローがばしぃぃん、「ヒロイン」や「セカイ」を救う様に歓喜する。
 でも、それと同時にもう一つの楽しみ方として「ヒロイン」の側に立って、「自分と自分を取り巻くセカイ」を救済される快感もあると思う。
 読み手は主人公だけでなく、ヒロインにも感情移入して、まるごと助けられることによってスカッとできる。
 こういうのが顕著なのが『とある魔術の禁書目録』の「上条当麻」さんだろう。
 あの人がなんでカッケー、て言われてるかというと、やっぱり読み手がヒロイン側の視点に立って、「上条さんに助けられる快感」を味わってる面は大いにあると思う。
 少なくとも、哲学さん、よく分かんないけど、10歳以上年下の上条さんのことずっと「さん付け」で呼んでしまう。敬称抜きには呼べないね。
 化物語も「アララギさん」に助けられる快感は確実にある。
 そして、上条さんも千の言葉を尽くすよりも、「理想論を掲げてぶん殴る」という肉体派だ。
 上条さんの「そげぶ」って、とどのつまりイコール「ヒロインを抱きしめて救済」なのだ。
 そんなことされたら惚れざるを得ない(笑)
 それでいて、上条さんの説教は目の前の問題に対して「これこれこうしろ」と具体的な解決策を出してくれない。
 「そのやり方は間違ってる! 現実が辛いからって諦めるな。他の方法を考えろ!」とやり直しの要求のみ。
 結局「助ける? そりゃ無理だ。君が勝手に一人で助かるだけだよ、お嬢ちゃん」と言う忍野メメと同じく「勝手に助かれ」ていう話なんだよね。
 そこら辺に『化物語』と『とある魔術の禁書目録』の根底にある共通点を読み解くカギがあると思う。
(あ、そう言えば『傾物語』はまたどえらい話らしいけど、まだ途中までしか呼んでないのですっげぇ気になる。)



 ええっと、あっち行ったりこっち行ったりしてるので強引にまとめる。

○「セカイ」というマクロはそのままだと捉えづらいけど、「キミ」というミクロフィルタを通せば捉えやすい。
○そうして「キミとボク」の物語を拡大して「セカイ系」という物語を作れる。
○なので、「セカイ系」は基本的に「ヒロインを救えばセカイも救える話」。
○現実はそう上手く行かないので大概は最後にどっちか選べと言われる。
○まあ、両方救うのが主人公=勇者だよね(笑)
○救い方として「ヒロイン=セカイにその素晴らしさを自覚させる」と言う方法がある。
○人間て、助けられるんじゃなくて、最終的には勝手に自分で助かるもの……と言う考え方もある。
○自覚させるには「ヒロインを抱きしめる」か上条さんみたいに「そげぶ」する。
○あと、「セカイ系」はヒロインを助ける快感だけでなく、ヒロインに感情移入して、主人公に救われる快感がある。

 色々と途中すっ飛ばしたけど、まあこんな感じ。