<そんな訳で>

 学園ものの小説が書けない哲学さんです。いや、書きますよ。そのうちさ!
 せっかくだから震災の日と引っかけて書いてみました。
 なんだかあの頃は凄く勉強していた気がします。とはいえ、その後進学校に入って普通の中学・高校よりは勉強してたはずですが、日能研の頃の濃密さには敵わないかなぁと思います。あそこは本当に勉強のためのマシーンを作ってた気もします。そんな一点突端ところは結構嫌いじゃありませんでした。だって、予備校なんだから、勉強だけしてればそれでよかったですしね。なんのかんので、休み時間はクラスメイトとも仲良くしてたと思います。いや、哲学さんは変人だったから、珍獣扱いだったと思いますが。
 しかし、この経験を作品作りに生かそうと思うと難しいですね。
 二週間後に受験だ……と思ってたらなんの伏線もなしに『地震で志望校は街ごとぶち壊れました。更に大阪・京都から大量に受験生がやってきて試験は大混乱でした。』と言う展開にしたら「作者なにご都合主義してんだ。てこ入れ必死だなwwwwwww」とか言われかねません。
 哲学さんの作品で、いきなり個人では及ぶことのないカタストロフが何の伏線無しにやってきたりするのはこの小学校の頃の体験が影響してるとは思います。まあ、物語世界でそんなことすると「伏線張れよ」とか言われるのですが。あるいは「『デウス・エクス・マキナ』いい加減にしろ」とか(笑)
 まあ、昔の体験のせいにしても仕方ありません。
 今思い返しても、なかなか楽しい小学生時代だったと思います。
 あの頃の頑張りを思い出して、哲学さんも小説作り頑張ろうと思います。
 ではでは。


 あああと、MacBook Air 11インチ欲しい!

<能率的な教育>

 学園ものの小説を書こうと思ったら、そこではどういう教育が行われているのだろう、とか考える哲学さんは頭が堅い方だろう。学園ものの話って大抵授業内容なんて描かれないし、教育方針がメインになる話は少ない。もちろん、『バカとテストと召喚獣』みたいな話もある。『とある魔術の〜』シリーズだって教育方針のせいでレベル問題とか出てるなどそういう視点は持っていたりする。もっともそれは特殊な教育をする学園ものにおいて発生する視点で、大抵の学園ものは教育自体は日本の画一的な教育を基本モデルにしている。
 生徒の個性伸ばす開放型の教育の理想型としてラノベで描かれていたのは『気象精霊ぷらくてぃか』かと、と思う。そこでは生徒の自主性を重んじ、生徒が自分で考えて答えを出すように促していた。こういう学校はいいな、と思いつつ読んでいた。もっとも、『気象精霊記』シリーズに関してはラノベ読みの間で苦い顔されることがあったりするので語りづらいのだけれど。
 それはともかく、開放型の自主性を重んじる教育はえてして不真面目な生徒が堕落しやすい。それは前述の『気象精霊ぷらくてぃか』でも触れられている。では、どんな教育ならいいのだろうか。
 優秀な人材を能率的にコンスタントに育てるのなら、一つの例を知っている。
 それは――『日能研』という小学生向けの塾である。



 とはいえ、これは哲学さんが行っていた頃の、十年以上も前の話であり、今はどういう教育がされているか分からない。ただ、哲学さんが小学校の頃に行ってた時はとてもすごかったと思う。
 まず、クラス分けが違う。
 クラスは成績で分けられる。たとえば3クラスあったら、「栄冠クラス、1組、2組」となり、成績が低い子は「2組」へ。いい子は「1組」へ。とても成績がいい子は「栄冠クラス」に行く。
 このクラスは固定ではなく、数ヶ月ごとにテストの成績で変動し、最初は栄冠クラスにいた子でも、成績が下がれば2組に落とされたり、逆にスタートは2組でも、勉強すれば栄冠クラスへと昇格することがある。関係性としてはもメジャーリーグマイナーリーグみたいなものだ。あるいは相撲の番付だろうか。
 授業のクラスだけなら他の塾でもあっただろうが、日能研の徹底していたところはクラスの席順である。生徒が教室に行けば、一番前に毎回、生徒達の席が書かれている。それは全国テストの成績順だ。一番成績のいい子は一番前の真ん中の席で、二番三番はその隣。そして、勿論成績が悪い子ほど席は後ろになる。
 つまり、授業を受けるのにも成績が影響され、座る席を見るだけで生徒達は自分はクラスでどのくらいの位置にいて、どの子が自分より成績がいいか悪いか一目瞭然で分かるのだ。
 小学四年生なら、毎週3−4種類の授業を受ける。「国語」「算数」「理科」、選択科目で「社会」。そして、2週間に一回くらいの頻度で、日曜日に全国模試があり、その成績で授業の座席の位置が変動し、三ヶ月前後の成績でクラスも変動する。徹底的な競争主義的な教育だ。
 子供達は成績をあげるために、上を目指すために頑張る。
 哲学さんが行ってた明石校だと、4年生は上記の通り「栄冠クラス、1組、2組、3組」の4クラスだったが、5年生は「栄冠クラス、1組、2組、3組、4組」の5クラスで、六年生になると、「灘・甲陽特進クラス、栄冠クラス、1組、2組、3組、4組」の6クラスだった。
 哲学さんは4年生で最初に入った時は最下層の3組からスタートだったが、4年生のうちに、1組まで成績をあげて、5年生では栄冠クラスにまで昇格した。が、6年生では、栄冠クラスの中でもトップクラスの奴らだけが入れる「灘・甲陽特進クラス」には入れず、栄冠クラス止まりである。
 ちなみに、「灘・甲陽特進クラス」は日本で一番難しいと言われてる兵庫県の灘中学とかに入るべく小学校にしてやたら難しいことを勉強してたエリートクラス。やたら変人が多かったと思う。
 これは哲学さんだけの経験かもしれないが、一般的な「努力型秀才タイプ」や「こつこつガリ勉タイプ」は1組周辺に多くて、「栄冠」・「灘・甲陽特進」は何考えてるか分からない変人や、やたら要領のいい天才系のやつらが多かったと思う。あ、天才系のやつらもやっぱりなんか変だった。勿論、きまじめな秀才タイプも上位クラスにはいたけど、変人の多い「灘・甲陽特進」ではそんな真面目人間は凄く浮いてた気がする。
 まあ、哲学さんの小学生の頃の話だから、記憶も曖昧なのだけれど。
 それはともかく、何事にも順位をつけて、その順位によって、教室や教育内容、はては待遇まで徹底的に差別化をはかるこのシステムはとても効率的で、ともかく成績のいい奴を大衆から振り分けて頭のいい奴にはどんどん難しいことをつぎ込んで成績を伸ばすのは「勉を教する」という意味ではとても効率的だと思う。もちろん、色々と弊害はあるだろうけれど。
 これが小学校などならば教育委員会や親などから批判を受けるかも知れないが、これは塾である。というか、日能研は確か当時のキャッチコピーとして「小学校向け予備校」だったと思う。
 成績をあげるだけならこのシステムは実に効率的だと思う。
 哲学さんは怠け者で、言われない限り自分から勉強なんてしないタイプの人間だったから、日能研に行ってなかったら学業成績は徐々に下がっていって今以上に駄目なヤツになってただろうなぁ、と思う。少なくとも、大学受験も勿論頑張ったと思うのだけれど、小学校の時の中学受験の時ほど勉強したかというとそんなに実感がわかない。「日能研の時ほどじゃなかったな」と言う感想。……まあ、おかげで大学受験に失敗してるのだけれど。(言われないと勉強しないタイプの人間は、自分に興味のあることしか勉強しないので、どうでもいい知識はたんもりと異常なくらい蓄積して「なんでお前そんなに勉強してるの」とか言われるが、本人は好きでやってるので勉強なんてした覚えはまったくない……なんてことが多いと思う。少なくとも、哲学さんはそうだった。高校時代なんかあんなに知識があるのに何故、学業成績そんなに低いのかと言われたりもした)
 まあ、日能研に行って、勉強の毎日を送っていた哲学さんだったが、それでもスーファミでFF6やクロノ・トリガーをガンガンやってて攻略してまくってたし、日能研のない日は友人と公園でサッカーしたり、毎週のジャンプは欠かさずチェックして、コロコロとボンボンも毎月必ずチェックしてた。さらには日本史が好きだったから、京都の寺社仏閣を父と回ったり、大学生受験用の日本史の参考書を読んだり、図書館から古事記を借りて読んだりと、小学生生活を満喫していたと思う。何故かあんなに勉強していたのに、勉強漬けだった記憶がない。人間やりくりすればできるものだ。
 とはいえ、勉強するのに、趣味を捨てなかったせいで睡眠時間が大幅に削られ、午前中はやたら眠かった。学校で寝る癖は確実にこの時期に作ったのだろう。
 まあ、思いっきり弊害がでてるがあんな教育を受けてそれなりに楽しかったなぁ、と哲学さんはのほほんと考えるのだった。エリートを教育するならあんな感じがいいだろう、と思うがまあふつーの人なら嫌がるだろう。
 この教育モデルをテストケースにして、次に学園ものを書く時はなんか面白いカリキュラム考えたいな、と思う哲学さんである。

<能率的な教育のその後>
 せっかくだから、その後哲学さんがどうなったかも記しておこう。
 上にも書いたが哲学さんはそれなりに勉強楽しいな〜となってたが、普通の人ならそんな勉強生活をまず嫌がるだろうと思う。
 なにせ、6年生にもなると小学校が終わったら日能研に行って、夜八時ぐらいまで受験勉強して、その後家に帰って塾の宿題をして、日曜日は毎週全国模試。夏休みの半分が夏期講習で潰され、冬休みはほとんど冬期講習で潰される。勉強漬け。
 なので、哲学さん、六年生の夏期講習の前期模試で全国25位まで成績をあげたけど、その後はずっと下がりっぱなしだった。なんのかんので哲学さんも勉強漬けの毎日に軽く飽きていたのだろう。
 怠け者の哲学さんは親に「勉強しないなら塾を辞めろ」と幾度となく言われてたのだけれど、自分から「いや、辞めたくない」と行って日能研に行ってたのだから色々とマゾい話だ。ちなみに、哲学さんには二人の弟がいるが、上の弟は五年生であっさりと日能研が嫌になって辞めて、下の弟は行きたくない、と言ったので行くことすらなかった。行きたくないなら行かなくてもいい、と言ううちの親の教育方針は実にありがたかったと思う。とはいえ、三男は数年後に「上二人はあんな日能研でエリート教育させてたのに、俺だけ行かせてくれなかった。末っ子の俺には愛情がなかったんだ」とかキレだすのだがそれは別の話。(塾に行かせないとか末っ子を最大限に甘やかしてたのだが、末っ子にはそうは思えなかったらしい)
 それはさておき自主的に小学生最後の冬休みを潰して通常カリキュラム+志望校特別カリキュラムを毎日こなしていた哲学さん。このまま行けば、志望校にいけるかなぁ、と思いきや、そこで事件が起こる。
 2月初旬に中学受験の試験日があるのだが――その試験に二週間前、1/17。
 『阪神大震災』が起きるのである。
 おかげで受験どころか、志望校ごと神戸の街が地震によって崩壊した。
 2/2前後にあるはずだった試験は当然中止。神戸の街は復興優先に。
 哲学さんはその当時3LDKの家に住んでいたのだが、そこへ神戸にいた親族が一斉に避難してきて20人で雑魚寝状態だった。なにこの疎開先。
 それでも、3月に中学受験は行われることになった。
 哲学さんの志望校は六甲中学校だった。その名の通り神戸の六甲山にある学校である。
 そこで予想もしない震災の副産物が出ることになる。
 なんと、受験者が10倍近くに膨れあがったのだ。何故かというと、神戸の有名私立が軒並み受験が三月に延期したため、2月に大阪や京都で受験に失敗した奴らが大量に神戸の中学受験に押し寄せてきたのである。合格者が5人に一人から50人に一人くらい膨れあがった。(……と思う。記憶曖昧。実際はもっと少なかったかも?)
 かくて、震災後、微妙にテンション上がらなくて、それでも親戚雑魚寝状態の家で勉強していた哲学さんだったが、結局受験には失敗した。
 六甲で受験した時、休憩時間に崩壊した神戸の街を見下ろしながら父と弁当を食べていたのだが、何故かその時の光景を思い出せない。神戸の街を一望できるその場所にいたというのに、哲学さんは何故か何も覚えていない。今となってはあの頃の景色を覚えておくべきだったと結構後悔している。
 受験失敗後はずっと前にクリアしたはずのスーファミFF6をやってた。何度も何度もやり直してた。
 それを見かねたのか、親が他の学校も一つ受けてみないか、と言われたので親の薦めで滝川中学の後期試験を受けることになった。
 六甲中学に行った時は山道だったので、全然神戸が崩壊している様子など見れなかったのだけれど、こちらに受験しに来た時は違った。
 平地にあるので、壊れた周囲は壊れたビルが大量にあり、その間をあるき、小学校からは避難民達のすすり泣きが聞こえたり、自衛隊のヘリが飛んでたり、プレハブの建物が目についたり、まさに地震によって崩壊した神戸の街を歩いた。
 辿り着いた先で哲学さんは――何故かしばらく会ってなかった日能研の仲間達と出会うことになる。みんなバラバラの志望校で、もう会うはずがないと思っていたのだが、みんな志望校に落ちて、あるいは最初からこの滝川が志望校でここに来ていたらしい。みんな行ってる小学校もバラバラで、日能研の時だけ一緒という勉強の時だけの関係かと思いきや、こんなところで再会したのである。
 かくて、哲学さんはこの滝川中学の受験に合格し、存外に日能研時代の仲間達と一緒にこの私立中学で六年間(中高一貫教育なのだ)の青春を共にすることになるのだった。
 以上が哲学さんの一番勉強していた時期のお話である。

そんな訳で

 00年代の話をまとめようと思ったらいつの間にかこんな記事を書いてた哲学さんです。
 というか、次に書く小説のプロットを考えていて、「セカイ系とは何か」を考えて、その際に出てきた思考の一つをせっかくだからアウトプットした次第です。
 おかげで色々と理論的に飛ばしと飛ばしの記事になってしまいました。
 00年代てなんのかんので「セカイ系」の物語が主流の時代だったと思います。 
 で、その「セカイ系」やその他今までの物語スタンダードひっくるめてその「先」を見せてくれたのが「まおゆう」ですね。だからこそ、今年の一番は何か、と言われたら「まおゆう」が出て来るのでしょう。
 でで、来年で2011年です。
 00年代はおわり、10年代の開始です。(※哲学さんは00年代=2001−2010、10年代=2011−2020と考えてます。個人的見解ですけど!)
 10年代は、この先に行きたいです。
 「セカイ系」の先をどうすればいいのか。
 なんかこー、ここ数日何か閃きそうで、喉の奥に何かつまったような感覚がありまして。
 じゃあ、まず自分が『セカイ系』を書くならどんな話か、と考えたら上の二つの動画が浮かんだんですね。
 一つの歌で、片方は「キミ」を救って、片方では「セカイ」を表現してて。
 そこら辺から、こう、上手く何か出てきそうなんですが……まあいいや。
 とりあえず、来年は絶対に小説大賞を取る!
 頑張ろう!

ミクロとマクロの救済-セカイ系を振り返る-

 まずはこの動画を見て欲しい。

 悲嘆にくれる少女(「きみ」)に、「ぼく」が話しかけていく、とても素晴らしい感動的な動画。
 歌の歌詞にも沿っていて、とても感情移入しやすいと思う。
 では、合わせてこちらの動画も見て欲しい。

 こちらも同じ歌で、とても映像が美しくて、感動出来る動画だ。
 同じ歌で、別の映像――それはMADではよくあることなんだけど、この二つは決定的に方向性が違う。
 単純に、前者は「人対人」の「ミクロ」がテーマで、後者は地球という「世界」の「マクロ」がテーマになってる。
 勿論、歌自体は「ミクロ」の歌なんだけど、映像をマクロにしても、通じている。
 これはある種「世界」の擬人化だろう。「マクロの映像」を「ミクロの歌」を通すことによって視聴者に分かりやすく伝えている、と思う。
 多くの人は、たとえば「世界は素晴らしい、世界は美しい」的な美辞麗句を並べられても、あんまり感動できないと思う。対象が大きすぎて、視聴者から身近でなくなるので理解の外に行きやすい。勿論、ダイナミックな自然の映像を見れば「おおっ」と思うけれど、それでも体験を伴ってないと、それほど感動できなかったりする。
 ところが、そこで大自然や「世界」を「キミ」という人間フィルタを通して解釈することによってぐっと近づいて見ることが出来る。
 よくエコを訴えかけるようなポスターとかで、地球が泣いてる絵が書いてたりするのは、そうやって人々に親近感を与えるためだろう。
 やっぱり、人間は、人間の視点に立った方が分かりやすい。
 「世界を救う」という視点は分かりにくいので、「キミ=ヒロイン=世界」とすることによって、「ヒロインを救う=世界を救う」としてしまえば話が非常に簡潔になって分かりやすい。
 それを作品手法として成立したのがいわゆる「セカイ系」なのだろう。

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そんな訳で

 twitterの予告通りにざっとガーターの過去考察をまとめて見た哲学さんです。
 おいおいあんな下ネタアニメをなに真面目に見てんの? 馬鹿なの? て感じですけどまあ、こんな見方もあるよってことで。
 そういや、青少年育成のための都条例なんか成立してましたね。
 まったくもってファックな話です。
 哲学さんはパンストみたいなファックな話が大好きで、青少年の育成に悪影響を及ぼしそうな話がとても大好きです。
 細かいことを言い出したらきりがないけど、とりあえず、知ったことか、オレを縛るものはゆるさねぇ!と言いたいと思います。
 哲学さんはそこら辺は気にせず今まで通り生きたいと思った次第です。
 まあ、守るべき法は守りますけどね。
 それでも何かを貫くのがアナーキーであったり、ロックなのでしょう。
 そこら辺も含めてパンストの最終回を楽しみにしてます。
 ではではー!

ガーターベルトの過去

 相変わらずアニメ『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』を楽しんでいる。
 パンスト第11回放送の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ガーターベルト』でガーターベルトの過去が語られていた。
 とても興味深い話だった。
 前半はともかく、後半はおそらく嘘だと思われる。話の最初にガーターはこう語っている。

嘘は全てを隠し、また曝く。
この世で語られる全ての嘘は真実の扉を開くカギでもある。
開かざる扉は嘘というカギによって開くのか、あるいはそのカギが嘘なのか。

 なので、お話としては、彼の過去の半分は真実を隠すための嘘なんだろうけど――個人的には全部ホントであった方が面白くて好み。
 と、言う訳で哲学さんは全てが真実だろうなぁ、というロマンを前提に話を進めよう。
 まあ、本編の中でもガーターの過去が嘘かホントかはぼやかされているのだけれど。



 それはともかく、ガーターベルトの過去である。
 順を追ってみていこう。
 ガーターベルトは掃きだめのような街でウジ虫のようなチンピラとして生きていた。
 そこから大概の悪いことに手をつけて、ヤクの売人もしてのし上がり、自分の兄貴分すら殺して裏社会の頂点に上り詰める。
 この街一番のワルって奴である。
 兄貴分を殺す時の台詞がポイント。

ガーターベルト「オレを縛る奴は許さん」

 誰よりも何者かに縛られることを嫌い、自らの仲間にすら手をかけてのし上がったガーターベルト
 一見、アナーキー姉妹と同じアウトローに見えて、アナーキー姉妹は結構姉妹仲がよくて、仲間というか知り合いを大事にする。
 そこが彼と姉妹の分岐点だったのだろう、彼に待っていた結末は一人でヤクを吸って悦に入ってるところで元部下らしき奴らに銃殺されるというオチ。(まあ、銃撃した連中が身内というのは哲学さんの想像だけど、話の流れ的にはそっちの方が自然な気がする)。
 で、死んでしまった彼がどうなってしまったのか。

 真っ白い部屋で、ただ一人「dunce cap」を被せられ、椅子に座らされるガーターベルト
「どこだ? ここは……」
 彼の前に一枚の紙がひらりと落ちる。
――『HEAVEN』――
「馬鹿な。オレの行き先は地獄と決まっている」
 更に紙が舞い降りる。
――『MISSION』――
 「mission」には幾つかの意味がある。「布教」。「使命」。
「オレに宣教師にでもなれと言うのか」
 紙を投げ捨てるガーターベルト
「命令されるのはごめんだぜ」
 そして舞い降りるのはただ一枚の矢印が書かれただけの紙。
 神は語らず、ただその行き先を示すのみ。
 それを見てガーターベルトはあまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出し、立ち上がり、帽子を投げ捨て、天に向かって叫ぶ。
「おい、よく聞けこの包茎野郎!
 オレ様は誰にも縛られねぇ!
 懺悔も贖罪もしねぇ!
 てめぇのヘニャチンをオレの肛門で締めちぎってやるよ!
 このタマ無しがぁっ!」
 神をも恐れぬ反逆の叫び。
 それに対し、天雷がガーターベルトの体を打ち貫き――気がつけば彼は見知らぬ土地に立っていた。
 ご自慢のドレッドヘアーがアフロにかわり、体もズタボロだ。
「くっそ、むかつくぜ!」
 そして、周囲の様子がおかしいことに彼は気付く。
 一面に広がるマグマと溶岩。見たこともない火山地帯。
『そこが地獄であったのならばまだわしは幸せだったのかも知れない。
 しかし、わしに与えられた試練はさらに過酷なものだった』
 そして地球の創世記から始まり現在に至るまでの長い長いガーターベルトの旅が始まることとなる。

 こっからの話は非常に嘘くさいんだけど、哲学さんは大好きだ。
 恐竜時代からほ乳類の時代に行き、アダムとイブから知恵のリンゴをふんだくって賢くなり、天雷と共に神が再び行く先を指し示すけど、無視したら洪水に巻き込まれて、ノアに助けられて再び神の啓示を受けて反逆したらクジラに喰われて、モーゼのエジプト脱出のどさくさに紛れて地上に帰ったら神殿の柱に再び神の啓示。むかついて柱をぶん殴ってたら兵士達に捕まってミイラにされてピラミッドに生き埋めにされて、盗掘者達に発掘されて地上に脱出したら十字軍の戦いに巻き込まれる。
 多くの人が死に、戦場には敵味方を問わず数多くの死体が横たわる。
 そして、荒野に一人、死ねない男がただたたずむ。
 足下を見れば、やはり矢印が一つ。神の啓示がなされる。
 神は語らず、ただ行く先を示すのみ。
 ガーターはもはや逆らわず、世界を静かに放浪し始める。
 バイキングになったり、フランス革命に参加したり、ザビエルの代わりに日本に宣教師に来たり、ナチス党に参加したり、スーパーマンになったり……。

「それからもわしは様々なものを見た。
繁栄、滅亡、創造、破壊、生と死……。
わしを縛り、苛み続けるこの呪いと共に。
そしていつしかわしは悟った。この苦しみの中にこそ真の喜びがあるのだと」
『ガーター〜我が使命〜第一部 完、長らくのご静聴ありがとうございました。
なお、お帰りの際には西側通用口から……』

 その頃にはパンスト姉妹は寝てて、起きたら「あたしらここでなにしてたっけ?」『どーでもいいわ』と馬鹿馬鹿しくて帰ってしまう(笑)
 まあ、例えばの話、娘達にとっちゃ、父親の若い頃の武勇伝ほどつまらない話はないだろうから、育ての親っぽいポジションのガーターの過去話なんて聞いても彼女らにとってもつまらないだろうからこの反応は当然だろう。(※別にアナーキー姉妹がガーターと親子と言う訳でなく、似たような間柄である、てだけです)


 この流れで思ったのは、ガーターベルトの半生ってグレンラガンの螺旋王ロージェノムに似てると言うことだ。
 誰にも縛られることを拒絶し、反逆するも、最終的には神に逆らえず最終的には神の教えを広めるMISSIONについてしまったガーターベルト
 かたや、宇宙の滅びをふせがんとするアンチ・スパイラルの支配に反逆するも、屈して逆に人類を統制する側になってしまったロージェノム。
 彼らの人生はとても似たところがある。
 また、彼が昔ギャングのボスだったとすると、悪魔姉妹たちのボスである市長と昔知り合いで、対立してるというのは当然の摂理ともいえよう。
 じゃあ、ガーターベルトは昔の反骨心を全て奪われ、ロージェノムの如く千年の倦怠を覚えるような無気力な日々を過ごしているのか。そのキバを剥かれたのか。
 答えは、ノーである。
 ガーターベルトアナーキー姉妹に対して神父らしくことあるごとに理を説くが、彼自身も、全裸レースを主催したり、ギャンブルの胴元になったりしている。反社会的な行為に手を染めているのだ。
 ただ、彼がそうした行為に及ぶ場合は、大抵「Mr.G」に変装している。
 彼は、「ルールを破ること」が「悪いこと」であると自覚はしているのだ。だから、変装しているのだろう。
 やや飛躍するが、彼の行動理念としては、「ルールを破るのも守るのも人の自由。だが、破ることは悪いことなので、破るならバレない程度にこっそりやれよ。おおっぴらにはやるなこのアバズレども」てところではないだろうか。
 苦難の末に、あんなに縛られることを嫌っていた彼が縛りプレイにはまるくらいのマゾになってしまったのはギャグなオチだが、ルールを守ることと破ることの両方をきっと肯定していると思う。
 だから、結構人間的な深みがある……のか? まあ、男のケツを掘るのはきっと反社会的な行為ではないんだよ、きっと(笑)


 それはそれとしてこういう、「救いようのない悪党が超常的な存在に『気づき』を得て救済される」と言うモチーフは結構昔からある。
 神様ももっと他に救うべき人間がいるだろうに、何故か悪党に救済をくれるんだよね。まあ、神とは限らないけど。
 似たような話だと、ディケンズの『クリスマス・キャロル』とか。(神は出てこないけど)。『ファウスト』とか。(神は出てこないけど)。
 あと、キリスト教系列だと、使徒パウロとかね。パウロキリスト教徒をバンバン迫害していたのに、途中で回心して誰よりも敬虔なキリスト教徒になったという人物だ。
 この類型の話、なんのかので結構感動してしまう。
 最初ら辺は「悪党の癖に何を今更……」と読んでたらいつの間にか読み終わる頃には「あんな悪党だった主人公が、こんないい奴になって……」て感動できるストーリーライン。
 たぶん、どんな悪党でも救えますよーて希望があるからいいんだろう。デジモン02のケンちゃんとかいいよね。(古い)
 最近のラノベだと、『ゼロの使い魔』のガリアの悪逆の王ジョセフ王が好き。弟の真実を知って満足に死んでいくあのエピソードは大好き。



 まあそれはそれとしてアウトローとして失敗しつつも、人間的に成長したガーターベルトが、アナーキー姉妹というアバズレ天使のお目付役についていると言うこの構図。
 アウトローではなく、アナーキーである彼女らがこれからどうなっていくのかとても楽しみ。
 自由ってのは、結局縛るものがなければ、それを規定することは難しい。ルールがあるからこそ、ルールを破ることが出来る。
 そこら辺から、グレンラガンからまた一歩進んだ回答がパンストの最終回で見れればいいなぁ、と思う。
 「ナッシングツールーム」でパンティが天界に帰る方法として軌道エレベーターもどきというかバベルの塔もどき考えてたけど、あそこら辺が伏線になるのだろう。
 いよいよ最終回が近づいてきたって感じ。
 実に楽しみだ。

そんな訳で

 どうも、駄文書いてたらこんな時間の哲学さんです。
 いやー、パンスト大好きなんですよ。
 で、この思想的に、グレンラガンから継承されてる、てところをいつかまとめておきたくて、で、今回のミュージッククリップに感動したので一気に書きました。
 いかがだったでしょうか。
 グレンラガンとパンストの意外な繋がりが見えたら嬉しいなーて感じです。
 よければ、パンストみてくださいな!
 ではでは。