あるべき語り部

 物語を作ると言うことはどういうことだろうか。
 作品を作ると言うことはどういう事だろうか。
 例えば、一次産業。食物などを作る。これは人間が生きていくのに必要なものを作っている。ものを食べなければ人は生きていけない。
 例えば、二次産業。加工・建築などだ。人が生きていくのに使う道具や住む空間などを作る。車やフォーク、お箸、パソコン、道具があることによって人はより豊かに来らす事が出来る。
 そして、三次産業。サービス業と言われる分野。人がユタカに暮らすのにもっとも必要とされる分野である。主に情報と知識が主と言われる。小説・アニメ・ゲームなどもこの部類だ。
 物語は人生に置いて何をもたらすのか。
 人はものを食べなければ生きていけない。道具がなければ原始的な生活をしなければならない。じゃあ物語はどうなのか。

 人は物語がなければ生きていけない。
 物語は人の心を豊かにする。人の心を形作るのは物語だ。
 人は物語に感動する。これこそが何よりも大事だ。そして、その感動を実生活にフィードバックする。
 世界でもっとも影響を与えている物語は「聖書」だろう。キリストの足跡が人々を感動させ、かのような生き方をしようと思わせる。
 別に文学的に優れているものだけが影響を与える訳ではない。巨人の星に感動してプロ野球選手を目指した人も多くいるだろうし、キャプテン翼に感動してサッカー選手になった人や、スラムダンクに感動してバスケット選手になった人は数多くいる。
 物語は人生を動かすのだ。

 本というものは人々に新しい価値観や、体験を与える。それは実体験には及ばないかも知れないが、大きな力を人に与える。誰かの伝記を読むことによって人生を追体験し、その人に憧れ、その人と同じ道を行く人だって多いだろう。
 悲劇なども重要だ。人は哀しみの数だけ強くなれる。体験したことのない哀しみを理解しづらい。例えば、親子で中のいい人は虐待のことを理解しづらいだろう。しかし、虐待の体験談、あるいは小説・ドラマなどを読んだり見たりすることによって虐待について少しは理解を得られる。完全な理解は不可能だろうが、虐待を受けた友人の心に少しは近づけるだろう。
 これは些細なことだが大きな差だ。
 悲劇は反面教師にもなる。だが、多くの感動的な悲劇は間違いだけでなく、その間違いを愛おしいと思える聖性がある。その聖性に触れることはまた人生を豊かにする。

 つまりは、物語を作るということは、人々に生きる活力を与える為にある。面白い映画やドラマを見たら、自分も頑張って生きていこう、あるいは明日から仕事頑張るかーと思うことが出来る。物語の快感は人生を豊かにするのだ。
 その為にクリエイターは他者を感動させるために作品を書く。

 しかし、近年の日本には一つの問題がある。物語の快感に留まる人が増えているのだ。物語の快感を生きる希望とか活力に変えず、そのまま物語のままに閉じこもる人が多くなっていると思う。現実世界を豊かにするための空想なのに、空想の中に閉じこもって、ひたすら物語の悦楽に浸るのである。
 こういった人種はオタクとか呼ばれる人に多い。ここで勘違いしてはいけないのは、オタクは全員空想に浸ったヒキコモリという訳ではない。ちゃんと仕事をもったサラリーマンなオタクとか、オタクの大学教授とか、オタクの国会議員とかだっている。

 一時期、暴力描写の多い漫画を読んだから少年が犯罪に及んだ、とか騒がれたことがある。今だって「こんな漫画を読んだら不良になる」とか「こんな漫画を読むのはヒキコモリだ」とか言われたりする。それで表現が規制される。
 私はこんな意見がとても嫌いだ。物語に共感できる感受性を持った人は本質的に悪い人間ではないと思う。物語を通して得られた感動はその人間を一回り大きく成長させられると思う。
 けれど、日本は余りにも豊かだから――そこら中に面白い物語が溢れている。物語の快感を手軽に得ることが出来る。そして……そのままはまってしまう事が多い。

 私はそれを非常に惜しいと思う。これだけの面白い物語に触れて、色々なことを考えられる人種は地球上を探してもほとんどいないと思う。


 だから。

 出来うるならば、それらの人々の空想で蓄積された力を現実に解き放つ、そんな作品を書くようになりたい。
 だが、どうすればいいのか。
 クリエイターという道は激しく遠い。