そんな訳で

 いい文章を見ると何か書きたくなります。
 いい映画とか見たりすると「おおおおお」と心の中で何かが動いて「この感動を! 何か、どうにかしたい!」とかなったりします。
 そう思うたびに人生ってのは楽しいなぁ、て思ったりします。
 ああ、ちなみに、ペトロニウスさんの上記の記事で得たことは、
「ああそうか!! 人を尊敬出来なくても、人は自分に謙虚にすることは出来るんだ!」
 と言うことです。これは大きな発見。
 あいつすげー、て思うよりも自分はまだまだだなぁ、と思う方が人間簡単ですよね。
 なんか凄くいいアイデアを頂きました。



 そう言えば、上記の文章にあった、知り合いとの三人大阪行きの時にこんな話がありました。

女「そう言えば、知ってる?」
哲学「(いや、女の子ってよくそう言う出だしで話することあるけど、そんなこと言われても主語がないので判断できないけど……)何が?」
女「子供に見せたくないアニメ第一位」
男「クレヨンしんちゃん?」
女「最近はドラえもんらしいよ」
男&哲学「「は?」」
女「見せたいモノ一位がクレヨンしんちゃんで、見せたくないモノ一位がドラえもん
男「なんでまた?」
哲学「その情報ソースはどこ?」
女「(情報の出所は)よく知らんけど、ドラえもんは何でもかんでも道具とかで何とかなるって子供が思いこんで子供が甘えやすいからダメなんやって。
 クレヨンしんちゃんはまだ五歳児らしい我が儘だからまだ許せるとか」
男「はぁー」
哲学「……ドラえもんってかなりの風刺漫画だったりするのになぁ」
女「ふうし?」
男「風刺。世の中を風刺したりしてるの」
哲学「えーと、つまりは世の中を皮肉ったりしてる」
男「だよなぁ。意外ときつい話多いよな」
哲学「なんにしても、ドラえもんの話のキモはのび太が『ドラえもーん』と泣きついて道具で助けて貰うけど、最終的には必ず失敗して『ああ、やっぱり自分で努力しないとダメなんだなぁ』てことを自覚する話が多いよ。
 クレヨンしんちゃんでも野原みさえがしんちゃんをすぐ怒鳴りつけて抑えるでしょ。あれと同じ効果が物語りそのものにある」
男「そうそう」
哲学「あれかなぁ……最近の子供は起承転結の転の前ののび太ドラえもんの道具で好き放題している所だけを取り出して悦に入ってるってこと?最後に失敗してドラえもんに『あーあ、だから言ったのに』とか諫められるところは気にしてないってこと?」
女「いや、なんか最近のドラえもんのアニメそういう話少ないらしいで」
男「なぬぅ?!」
哲学「んー、じゃ、アニメがダメなら漫画の方を子供に渡せばいいと思うで」
男「せやな。漫画の方ならそう言う話多いし」

 なんて会話があったりなかったりしました。
 この話の時は子供がドラえもんの道具に憧れるだけ――って言ったけどそれは当たり前の事ですね。誰しも『俺ならのび太より上手くやれる』と思うはず。
 しかしながら、幼年期はそれで甘えても小学校の始め辺りから世の中そう簡単にはいかず、甘い話には常に罠がある――なんて理解していくはずです。
 けど、最近の親はそう言う風に悟る前に子供からドラえもん取り上げているのかなぁ、なんて思いました。
 とはいえ、情報の出何処が分かんないので真偽の程はさだかではないですが。
 この話をしてくれた彼女の知り合いの母親達のネットワークでしょうか。
 事実だとしたらなんだかなぁ、な話です。
 けれど、声優が変わってからのドラえもんて一度も見たことがないので彼女の言う通り、もしかしたら最近のアニメのドラえもんて昔あった毒の部分がかなりなくなってるのかもしれません。
 伝聞は歪められる、と言ったばかりですが――この話はどこまで歪められて居るんでしょうかね。