人は人を感動させられるか

 ペトロニウスさん所の記事を読むのはとても楽しい。
 文章に力と説得力とか感じるからだ。
 毎回なんかの記事を読むたびにほほーう! なるほどー! と感動する。
 でも、私とペトロニウスさんの考え方は全然違って――なのにやっぱり感動するあたりやはり人間は面白い。

眼の前のにいるたった一人の心も動かせないで、世界を動かそうなんて思っちゃいけないな。

 の記事もまた考えさせられる。
 タイトルからしてまさにその通りだと思う。
 「面接官」の一人すら心動かせずに会社でデカイことしよう、て考えるのも間違いだし、「下読み」さんや「編集」さんの心すら動かせずに読者を感動させようというのも間違いである。
 そして、なんの力もないのに世の中がどうこうとか一人の人間が言ってもそれがどうした、と言われるものである。
 二日前、小学校の頃の友人と三人で大阪まで食事に行ったのだが――明石から大阪までは車で約二時間近くかかるので車の中でずっとお喋りしていた。
 以下はその時の会話

哲学「――なんにしても、戦争とかなくならんねー。イスラエルの辺りとかホントいつになったら解決するのやら」
男「まーなー」
哲学「そういや、イスラエルの所がなんであんな泥沼になってるのか二人は知っとん?」
男「いいや。そういや知らんな」
哲学「うーむ、やはり中東の事情なんてみんな関心ないよなぁ。まあ、分かりやすく説明しようか」
男「ああ」
女「分かりやすくやで。わ・か・り・や・す・く」
哲学「ああ、努力するよ」
男「ははは、姐さん難しい話聞き流すからなぁ」
哲学「ざっと……簡単にまとめると二千年前に今のイスラエルの辺りに住んでたユダヤ人は飢饉が起きてエジプトとかに逃げた。
 けど奴隷になってしまい、モーゼのおかげでなんとか逃げるけど……まあ色々あって結果的にユダヤ人は元の土地に戻ってもまた追い出されてヨーロッパとか世界中を放浪するハメになる。
 まあ、こうなってしまったら普通の民族なら逃げた先の土地で同化してフランスに住んだらフランス人に、イタリアに住んだらイタリア人になろうとしたりするんだけど、ユダヤ人はあくまでユダヤ人のまま何処に行ってもお前達とは違うんだ、という態度をとった。
 朱に交われば赤――とはいかなかった訳だ。周りとは同調しなかった。
 で、そんなことをすると当然迫害されやすい。ベニスの商人みたいに、あるいはヒットラーみたいに何処に行ってもユダヤ人は迫害されることが多かった。
 だから、なんとか昔の土地に帰ってユダヤ人の国を作りたかった。
 それで、時間は前後するけど、第一次世界大戦の時にイギリスがユダヤ人に
『戦争に協力すれば、ユダヤ人の国を作っていいよ』
 と約束した。なんせ、ユダヤ人は商売上手で金持ちだったから。
 でも、ユダヤ人が国を作りたいと思っていた所には既にパレスチナ人が住んでる。
 なのに、イギリスは
『戦争に協力すればアラブの国を作ってもいいよ』
 とパレスチナ人や他のアラブ人達に約束した。
 で、ユダヤ人もアラブ人達も自分たちの国が欲しいから必死で頑張って、戦争に勝った。
 そして次々とユダヤ人はイスラエルにやってくる。
 一方パレスチナ人達は自分の国を作ろうとしていたのに何故か次々とユダヤ人がやってきて大慌て。
 当然、『ここは俺達の国だ!』て互いに言い争う。
 それでイギリスや国連に『どっちが正しい!?』と聞いたら国境を半分くらいに引いて
『あとは自分たちで決めてくれ』
 とさっさと駐留していた治安軍とかを撤退させてしまった。
 仲裁する人が居なくなったので互いに内紛内紛の泥沼の紛争地帯になってしまったわけだ
 ……分かった?」
男「はー成る程なぁ。面倒な話や。姐さん聞いてた?……って窓の外眺めとるーーーー!!」
哲学「……難しかった?」
女「話長かった」
哲学「そっか……そうか。まあ飽きるよな!
 よし、じゃあ簡単にまとめよう。
 ユダヤ人はイスラエルから家出した。で、奴隷になったりもしたけど金持ちになって自分の家に帰ってきた!
 それで家出しなかったパレスチナ人達に金払うから出てけ、と迫ったけど『パレスチナ人は嫌だ!』と突っぱねた!
 で、互いに戦争という名の喧嘩をおっぱじめた!
 これでどうだ!!」
女「ふーん」
哲学「がくっ……ああ、もうどうでもいいのね(笑)」
男「まあ、関係ないもんな」
哲学「なくはないぞー!
 アメリカはユダヤ人に力を貸す。借りがあるから。
 で、アメリカは莫大な金と軍隊を消費する。
 そうなるとアメリカは日本に金出せとか自衛隊だせとか言う。
 すると、日本の税金があがる。
 で、俺達の生活が苦しくなる!」
男「……それが分かった所でどうすればええねん?」
哲学「…………………………取りあえず、選挙には行っておいた方がいいよ」
(※三人とも兵庫県民。しかし、兵庫県は47都道府県でもっとも選挙の投票率が低いのである)

 な風に全く持って目の前の人間の心を動かせてない哲学さんが居る訳だ。
 え、話が長い?
 ごめんなさい。
 とはいえまぁ、こういう知識の放出は決して無駄ではないと私は思う。
 常日頃から、自分の考えなどを自らの行動を持って体現し続けることによって何かしら世界に影響は与えるものだと私は思うからだ。
 人間の「勘」てものは大抵今までの経験則を無意識のうちに掛け合わせてなんとなくこうだろう、と言う判断を出すものと言われたりする。
 でも、その根拠は自分でも忘れてしまっており、ただなんとなく結果だけが心に残っているのみだ。
 しかし、それはその人の行動原理に何故か深く関わってしまっていたりする。

 例えば、バスの順番を並んでいる時に、横から割り込みされて――それだけで
「ああ、この世の中はなんて酷いんだろう。人間なんて信じられない。もう生きていけない」
 と思って引きこもってしまったりする人もいたりする。
 が、その人はそれが原因だとは分からず、何故かその日は一日中どんな人を見ても人間不信に陥り、引きこもってしまうけれど、その原因がなんだったかは忘れてしまったりしている。
 たかだか割り込み――と他の人は思っていても、そんな些細な事で人はふさぎ込んで生きる気力を失ったりする人もいたりするのだ。
 逆に、その割り込みされた時にすぐに他の人が
「コラ、割り込みはいけないだろう」
 と注意したら、それだけで割り込みされて人生に絶望しかけた人間が立ち直り、むしろ、世界はなんて素晴らしいモノだろう、と思ってそれからの人生なにがあっても挫けずに生きている人もいたりするかもしれない。
 が、その人は何故自分が強く生きているか自分でも分からない。まさか、順番の割り込みを誰かが注意するのをみたという事が原因だとは思わない。そんな事は忘れている。
 けれど、その人は確かに強く生きていけるかもしれない。
 まあ、予測でしかないが。

 だから、世の中をよくしようと思うのならば常日頃から、自分の思うことをそれなりに人に伝えることは大事だと思う。
 無論、自分のストレスの発散の面も強いだろうけれど、誰かが人生の岐路に立たされた時にその判断材料に――もちろん私の意見だったということは多分忘れられているだろうが――私の話は影響してくるかもしれない。
 まあ、やり方にも色々あって、押しつけがましかったり、強硬論過ぎるとそれが「反面教師」として働いてだから哲学さんの意見ではダメだ、みたいなことになることにもなるのだが。
 それで、人間一人の心を動かしたところでどうなるのか――という話にもなるが、人一人を動かすと言うことはとても重要なことである。
 アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムの打ち出した仮説の一つに『スモールワールド現象』というものがある。
 詳しくはWikipediaで参照すればいいが、要は全ての人間は「知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合い」という理論だ。自分が知らないどんな人でも知り合いを六人くらい介せば二人は繋がっているという仮説である。
 未だこの仮説の実証はあやふやだが、草の根の活動というモノは長い長い目でみたらいつのまにか大きな世論になったりするものだ。


 とはいえ……伝聞は歪む。
 六人も間を介せばそれはもう、全然違う意見になっている。
 そもそも哲学なんて伝聞だ。ソクラテスプラトンアリストテレス→……と哲学は伝聞されて行き、現代ではもはや全く別のモノになっている。
 Aの話を聞いて、Bは「成る程。でも、Aのこの部分は違うと思うな」と考えて自分なりの解釈をCに伝え……と続いていくので自分の考えが全く正しく伝わるなんて事はありえない。ネットの時代の今でもそれは確かだと思う。
 一人の人間は広大な世界の連関の一つでしかないけれど、それでも決して世界になんの影響も与えないものでもない、と私は思う。
 自分一人が何かを言った所で世界は大して変わりはしないし、自分一人が居なくなった所で世界には大きな損失はない。
 でも、ちょっとした刺激くらいにはなる。(※つまらない。無駄な時間を過ごした、というのも刺激である(笑))
 ブログに書いたことなんてそれはものの数分で忘れさられ、思い出されることもないものがほとんどだ。
 でもまぁ、何も残らない訳ではない。
 幼い頃にドラえもんを読んだり、昔話を沢山読んだりした人はやはり物事の見方や視野がひろがったり人間性が豊かになったりすると思う。
 そこまでの影響は与えられないとは思うけれど――人生捨てたもんじゃないよ、とかなんかそこら辺のことを一瞬でも誰かに思わせられたらなぁ、と思って私は文章を書いたりするのである。