「何を主軸に置くか」

 今まで裏でこつこつ作っていた大賞用の小説を序章以外ざばっと書き直す事にした。
 理由は単純に、キャラクターが上手く描けていなかったからだ。
 よくある創作しなんの言葉に「設定を作り込まない方がいい」という言葉がある。あれはきっと私の様な人間のことを指し示すのだろう。
 八月の間書いていた私の小説はどうにも設定とかストーリーを重視してそちらにひきずられて、最終的にキャラクターが疎かになってしまったらしい。
 これはどういうことか。
 例えば、源義経静御前恋物語があったとしよう。
 そのストーリーは男と女の二人が惹かれ合って恋に落ちる、と言うものだ。
 しかし、その過程を観察日記の如く淡々と「羅列」したとして、果たしてその物語が面白いと読者は思えるだろうか。
 源義経静御前恋物語はこれまで沢山かかれている。でも、その事実を述べるだけならば何故こんなにも多くの人が別の方法でその物語を作っているのか。
 それは、物語を「描いている」からだ。「羅列」ではない。「描写」しているのだ。
 私はプロットにあるストーリーを文章に書き上げる事に必死になり、「描写」ではなく「羅列」に陥っていたようだ。
 おかげでキャラクター達はプロットという予定通りに物語を進行していくが、それは血肉が通わず、「やらせ」や「素人芝居」のようになっていたようだ。
 つまりは、物語という歌を棒読みしていたのだ。
 これは頂けない。
 別に設定を作り込む事は悪い事ではない。その設定のおかげで動けなくなるのは作者の力量不足という者だ。人は自力で空を飛べないけれど、代わりに様々な手段を使って空を体感できる。
 キャラクターを生かすと言う事はキャラクターに好き勝手させるということではない。
 そのキャラクターが自らの意志を持って、そのキャラクターらしい行動をさせる。そして、その行動を「表現してやる」と言う事が大事なのだ。
 一応、今書いてる作品は魅力あるキャラクターを出させている。二人の男女が恋する話だ。女は男に惚れられるだけのよさがあり、男は女に惚れられるだけの良さがなければならない。
 だが、それを表現せず、「彼は惚れてしまった」とか棒読みしてはいけない。「その彼女の仕種がどうにも愛しくて――気がつけば彼の鼓動は激しく高鳴っていた。そこで気付く。ああ、ボクは――」とかそんな感じに描くべきだろう。
 とはいえ、昔から言ってるように私は文章力は低い方だ。どーにもこーにも表現が脳内に追いつかない。
 だから、私は自らの未熟さを忘れてはいけない。自分が未熟である事を常に意識し、力を込めて歌わなければならないのだ。
 だから、棒読みにならないように、もう一度気合いを入れて歌う事にしよう。
 もう一度、最高の歌を歌うために。