悲劇の誕生

 ハッピーエンドとは何だろうか。
 それは勿論、皆が幸せになる結末だろう。
 しかしながら、ハッピーエンドにも色々ある。
 私が望むのは「傷の残るハッピーエンド」だったりする。
 何もかもが救われ、何もかもが助かり、何もかもが許される結末はどうにも首を傾げる。
 いや、それを否定する訳ではない。
 嫌う訳でもない。
 むしろ、ハッピーエンドなら大抵の事は無条件で好きだ。
 しかしである。
 人の哀しみ、苦しみはそうそう洗い流されるものではない。
 贖罪とは簡単に成されるモノではない。
 それまであった事をかき消すような事、全否定するような事、無意味とする事、それらを私はどうも好きになれない。
 例えば、

「ボクは、今まで沢山の人を殺してきたんだよ」

 と登場人物の一人が言った時、

「関係ない!」
「関係あるか!」
「そんなことはどうでもいい!」

 と言うのは場合によりけりとはいえ私の好む所ではない。それはその登場人物を否定することとなる。
 私が望む答えは

「それでも構わない」

である。
 彼がそれまで背負ってきた過去を肯定してやるのが一番私好みの解答だ。「それで『も』」と言う事はとどのつまり、全肯定ではない。許せない部分もある。認められない部分もある。『だが』、『それでも』、相手を肯定するのである。

 善だけの存在などあるはずもなく、かといって悪だけの存在もない。
 人の営みとは三割の否定と七割の肯定で行われる。ザ・センターマン、てヤツである。原田泰造である。

(※脚注 センターマン:バラエティ番組「笑う犬」にて原田泰造がやってたコント。毎回お金の取り合いしてる二人組の間に割って入って「人は五分だ五分だと言うけれど、七・三くらいがちょうどいい! ザ・センターマン!!」と現れて大雑把な判定で喧嘩を取り持つというコント。面白くないので知らなくていい)

 かの『沈黙の艦隊』(作:かわぐちかいじ)でも国連で海江田四郎とニコラス・J・ベネット米大統領の会話の最後に出てきたのは

「不完全なYESでいい」

 と言う言葉だった。
 世の中完璧なモノなどあり得ない。
 救いのない話というモノがある。
 『悲劇』と呼ばれる物語がある。俗に言うバッドエンド。
 とはいえ、それが本当に悪いモノだとすれば何故人は悲劇の話を読み、それに歓喜するのか。ベストセラーの半分は悲劇と言っても過言ではない。
 むしろ、日本の古典を鑑みれば日本人は悲劇が結構好きである。
 とはいえ、やはり男の大半は悲劇物を受け付けないようである。逆に、女性は意外と悲劇物の話をよく読む。
 残酷な話を女性は好むし、女性作家は残酷な作風が多かったりもする。
 無論、男性作家でも残酷な話を書く。けれど、そう言う残酷な話を書く人々はその作風とは裏腹に、とても優しくて好人物であることが多い。
 失敗のない人生などない。悲劇のない歴史などない。
 だから人は殊更に鬱屈した現実を吹き飛ばすようなハッピーエンドを求めるのだろう。人は自らにないものを求め、渇望するものだ。
 私は悪意、憎悪などを「良くない事」であると思いつつも、その全てを否定はしない。善悪など主観でしかなく、その時代の持つ価値観でしかない。例え悪い事でも、それが悪だとしても、それを全否定しようとは思わない。
 それは、この世の全てに意味があると考えたりする哲学者の一つの欺瞞である。この思考が正しいと言う訳ではない。一つの物の見方と言うだけである。
 だから、全てを許すハッピーエンドも、傷の残るハッピーエンドも私はそれなりに肯定し、それなりに否定する。
 何もコレは物語だけにおける視点ではない。
 自分の嫌いな所など何もない恋人などそれは気持ち悪いだけだし、そんなのは孤独なのと変わりない。

「君は胸がないけど、やっぱ可愛いなぁ」
「けど、て何よ!!」
「アイタタタタ!! そんな暴力的なところもそれはそれで可愛い、い、い、イタタタタタタ!」

 みたいな感じで相手にちょっと不満を持ちつつ肯定する感じなのがいいのである。
 愛は受け入れるという事。
 物語の結末が幸せな結末と言うのならば、そこには仄かな傷があってもそれでいいのではなかろうか。