<能率的な教育>

 学園ものの小説を書こうと思ったら、そこではどういう教育が行われているのだろう、とか考える哲学さんは頭が堅い方だろう。学園ものの話って大抵授業内容なんて描かれないし、教育方針がメインになる話は少ない。もちろん、『バカとテストと召喚獣』みたいな話もある。『とある魔術の〜』シリーズだって教育方針のせいでレベル問題とか出てるなどそういう視点は持っていたりする。もっともそれは特殊な教育をする学園ものにおいて発生する視点で、大抵の学園ものは教育自体は日本の画一的な教育を基本モデルにしている。
 生徒の個性伸ばす開放型の教育の理想型としてラノベで描かれていたのは『気象精霊ぷらくてぃか』かと、と思う。そこでは生徒の自主性を重んじ、生徒が自分で考えて答えを出すように促していた。こういう学校はいいな、と思いつつ読んでいた。もっとも、『気象精霊記』シリーズに関してはラノベ読みの間で苦い顔されることがあったりするので語りづらいのだけれど。
 それはともかく、開放型の自主性を重んじる教育はえてして不真面目な生徒が堕落しやすい。それは前述の『気象精霊ぷらくてぃか』でも触れられている。では、どんな教育ならいいのだろうか。
 優秀な人材を能率的にコンスタントに育てるのなら、一つの例を知っている。
 それは――『日能研』という小学生向けの塾である。



 とはいえ、これは哲学さんが行っていた頃の、十年以上も前の話であり、今はどういう教育がされているか分からない。ただ、哲学さんが小学校の頃に行ってた時はとてもすごかったと思う。
 まず、クラス分けが違う。
 クラスは成績で分けられる。たとえば3クラスあったら、「栄冠クラス、1組、2組」となり、成績が低い子は「2組」へ。いい子は「1組」へ。とても成績がいい子は「栄冠クラス」に行く。
 このクラスは固定ではなく、数ヶ月ごとにテストの成績で変動し、最初は栄冠クラスにいた子でも、成績が下がれば2組に落とされたり、逆にスタートは2組でも、勉強すれば栄冠クラスへと昇格することがある。関係性としてはもメジャーリーグマイナーリーグみたいなものだ。あるいは相撲の番付だろうか。
 授業のクラスだけなら他の塾でもあっただろうが、日能研の徹底していたところはクラスの席順である。生徒が教室に行けば、一番前に毎回、生徒達の席が書かれている。それは全国テストの成績順だ。一番成績のいい子は一番前の真ん中の席で、二番三番はその隣。そして、勿論成績が悪い子ほど席は後ろになる。
 つまり、授業を受けるのにも成績が影響され、座る席を見るだけで生徒達は自分はクラスでどのくらいの位置にいて、どの子が自分より成績がいいか悪いか一目瞭然で分かるのだ。
 小学四年生なら、毎週3−4種類の授業を受ける。「国語」「算数」「理科」、選択科目で「社会」。そして、2週間に一回くらいの頻度で、日曜日に全国模試があり、その成績で授業の座席の位置が変動し、三ヶ月前後の成績でクラスも変動する。徹底的な競争主義的な教育だ。
 子供達は成績をあげるために、上を目指すために頑張る。
 哲学さんが行ってた明石校だと、4年生は上記の通り「栄冠クラス、1組、2組、3組」の4クラスだったが、5年生は「栄冠クラス、1組、2組、3組、4組」の5クラスで、六年生になると、「灘・甲陽特進クラス、栄冠クラス、1組、2組、3組、4組」の6クラスだった。
 哲学さんは4年生で最初に入った時は最下層の3組からスタートだったが、4年生のうちに、1組まで成績をあげて、5年生では栄冠クラスにまで昇格した。が、6年生では、栄冠クラスの中でもトップクラスの奴らだけが入れる「灘・甲陽特進クラス」には入れず、栄冠クラス止まりである。
 ちなみに、「灘・甲陽特進クラス」は日本で一番難しいと言われてる兵庫県の灘中学とかに入るべく小学校にしてやたら難しいことを勉強してたエリートクラス。やたら変人が多かったと思う。
 これは哲学さんだけの経験かもしれないが、一般的な「努力型秀才タイプ」や「こつこつガリ勉タイプ」は1組周辺に多くて、「栄冠」・「灘・甲陽特進」は何考えてるか分からない変人や、やたら要領のいい天才系のやつらが多かったと思う。あ、天才系のやつらもやっぱりなんか変だった。勿論、きまじめな秀才タイプも上位クラスにはいたけど、変人の多い「灘・甲陽特進」ではそんな真面目人間は凄く浮いてた気がする。
 まあ、哲学さんの小学生の頃の話だから、記憶も曖昧なのだけれど。
 それはともかく、何事にも順位をつけて、その順位によって、教室や教育内容、はては待遇まで徹底的に差別化をはかるこのシステムはとても効率的で、ともかく成績のいい奴を大衆から振り分けて頭のいい奴にはどんどん難しいことをつぎ込んで成績を伸ばすのは「勉を教する」という意味ではとても効率的だと思う。もちろん、色々と弊害はあるだろうけれど。
 これが小学校などならば教育委員会や親などから批判を受けるかも知れないが、これは塾である。というか、日能研は確か当時のキャッチコピーとして「小学校向け予備校」だったと思う。
 成績をあげるだけならこのシステムは実に効率的だと思う。
 哲学さんは怠け者で、言われない限り自分から勉強なんてしないタイプの人間だったから、日能研に行ってなかったら学業成績は徐々に下がっていって今以上に駄目なヤツになってただろうなぁ、と思う。少なくとも、大学受験も勿論頑張ったと思うのだけれど、小学校の時の中学受験の時ほど勉強したかというとそんなに実感がわかない。「日能研の時ほどじゃなかったな」と言う感想。……まあ、おかげで大学受験に失敗してるのだけれど。(言われないと勉強しないタイプの人間は、自分に興味のあることしか勉強しないので、どうでもいい知識はたんもりと異常なくらい蓄積して「なんでお前そんなに勉強してるの」とか言われるが、本人は好きでやってるので勉強なんてした覚えはまったくない……なんてことが多いと思う。少なくとも、哲学さんはそうだった。高校時代なんかあんなに知識があるのに何故、学業成績そんなに低いのかと言われたりもした)
 まあ、日能研に行って、勉強の毎日を送っていた哲学さんだったが、それでもスーファミでFF6やクロノ・トリガーをガンガンやってて攻略してまくってたし、日能研のない日は友人と公園でサッカーしたり、毎週のジャンプは欠かさずチェックして、コロコロとボンボンも毎月必ずチェックしてた。さらには日本史が好きだったから、京都の寺社仏閣を父と回ったり、大学生受験用の日本史の参考書を読んだり、図書館から古事記を借りて読んだりと、小学生生活を満喫していたと思う。何故かあんなに勉強していたのに、勉強漬けだった記憶がない。人間やりくりすればできるものだ。
 とはいえ、勉強するのに、趣味を捨てなかったせいで睡眠時間が大幅に削られ、午前中はやたら眠かった。学校で寝る癖は確実にこの時期に作ったのだろう。
 まあ、思いっきり弊害がでてるがあんな教育を受けてそれなりに楽しかったなぁ、と哲学さんはのほほんと考えるのだった。エリートを教育するならあんな感じがいいだろう、と思うがまあふつーの人なら嫌がるだろう。
 この教育モデルをテストケースにして、次に学園ものを書く時はなんか面白いカリキュラム考えたいな、と思う哲学さんである。

<能率的な教育のその後>
 せっかくだから、その後哲学さんがどうなったかも記しておこう。
 上にも書いたが哲学さんはそれなりに勉強楽しいな〜となってたが、普通の人ならそんな勉強生活をまず嫌がるだろうと思う。
 なにせ、6年生にもなると小学校が終わったら日能研に行って、夜八時ぐらいまで受験勉強して、その後家に帰って塾の宿題をして、日曜日は毎週全国模試。夏休みの半分が夏期講習で潰され、冬休みはほとんど冬期講習で潰される。勉強漬け。
 なので、哲学さん、六年生の夏期講習の前期模試で全国25位まで成績をあげたけど、その後はずっと下がりっぱなしだった。なんのかんので哲学さんも勉強漬けの毎日に軽く飽きていたのだろう。
 怠け者の哲学さんは親に「勉強しないなら塾を辞めろ」と幾度となく言われてたのだけれど、自分から「いや、辞めたくない」と行って日能研に行ってたのだから色々とマゾい話だ。ちなみに、哲学さんには二人の弟がいるが、上の弟は五年生であっさりと日能研が嫌になって辞めて、下の弟は行きたくない、と言ったので行くことすらなかった。行きたくないなら行かなくてもいい、と言ううちの親の教育方針は実にありがたかったと思う。とはいえ、三男は数年後に「上二人はあんな日能研でエリート教育させてたのに、俺だけ行かせてくれなかった。末っ子の俺には愛情がなかったんだ」とかキレだすのだがそれは別の話。(塾に行かせないとか末っ子を最大限に甘やかしてたのだが、末っ子にはそうは思えなかったらしい)
 それはさておき自主的に小学生最後の冬休みを潰して通常カリキュラム+志望校特別カリキュラムを毎日こなしていた哲学さん。このまま行けば、志望校にいけるかなぁ、と思いきや、そこで事件が起こる。
 2月初旬に中学受験の試験日があるのだが――その試験に二週間前、1/17。
 『阪神大震災』が起きるのである。
 おかげで受験どころか、志望校ごと神戸の街が地震によって崩壊した。
 2/2前後にあるはずだった試験は当然中止。神戸の街は復興優先に。
 哲学さんはその当時3LDKの家に住んでいたのだが、そこへ神戸にいた親族が一斉に避難してきて20人で雑魚寝状態だった。なにこの疎開先。
 それでも、3月に中学受験は行われることになった。
 哲学さんの志望校は六甲中学校だった。その名の通り神戸の六甲山にある学校である。
 そこで予想もしない震災の副産物が出ることになる。
 なんと、受験者が10倍近くに膨れあがったのだ。何故かというと、神戸の有名私立が軒並み受験が三月に延期したため、2月に大阪や京都で受験に失敗した奴らが大量に神戸の中学受験に押し寄せてきたのである。合格者が5人に一人から50人に一人くらい膨れあがった。(……と思う。記憶曖昧。実際はもっと少なかったかも?)
 かくて、震災後、微妙にテンション上がらなくて、それでも親戚雑魚寝状態の家で勉強していた哲学さんだったが、結局受験には失敗した。
 六甲で受験した時、休憩時間に崩壊した神戸の街を見下ろしながら父と弁当を食べていたのだが、何故かその時の光景を思い出せない。神戸の街を一望できるその場所にいたというのに、哲学さんは何故か何も覚えていない。今となってはあの頃の景色を覚えておくべきだったと結構後悔している。
 受験失敗後はずっと前にクリアしたはずのスーファミFF6をやってた。何度も何度もやり直してた。
 それを見かねたのか、親が他の学校も一つ受けてみないか、と言われたので親の薦めで滝川中学の後期試験を受けることになった。
 六甲中学に行った時は山道だったので、全然神戸が崩壊している様子など見れなかったのだけれど、こちらに受験しに来た時は違った。
 平地にあるので、壊れた周囲は壊れたビルが大量にあり、その間をあるき、小学校からは避難民達のすすり泣きが聞こえたり、自衛隊のヘリが飛んでたり、プレハブの建物が目についたり、まさに地震によって崩壊した神戸の街を歩いた。
 辿り着いた先で哲学さんは――何故かしばらく会ってなかった日能研の仲間達と出会うことになる。みんなバラバラの志望校で、もう会うはずがないと思っていたのだが、みんな志望校に落ちて、あるいは最初からこの滝川が志望校でここに来ていたらしい。みんな行ってる小学校もバラバラで、日能研の時だけ一緒という勉強の時だけの関係かと思いきや、こんなところで再会したのである。
 かくて、哲学さんはこの滝川中学の受験に合格し、存外に日能研時代の仲間達と一緒にこの私立中学で六年間(中高一貫教育なのだ)の青春を共にすることになるのだった。
 以上が哲学さんの一番勉強していた時期のお話である。

<そんな訳で>

 学園ものの小説が書けない哲学さんです。いや、書きますよ。そのうちさ!
 せっかくだから震災の日と引っかけて書いてみました。
 なんだかあの頃は凄く勉強していた気がします。とはいえ、その後進学校に入って普通の中学・高校よりは勉強してたはずですが、日能研の頃の濃密さには敵わないかなぁと思います。あそこは本当に勉強のためのマシーンを作ってた気もします。そんな一点突端ところは結構嫌いじゃありませんでした。だって、予備校なんだから、勉強だけしてればそれでよかったですしね。なんのかんので、休み時間はクラスメイトとも仲良くしてたと思います。いや、哲学さんは変人だったから、珍獣扱いだったと思いますが。
 しかし、この経験を作品作りに生かそうと思うと難しいですね。
 二週間後に受験だ……と思ってたらなんの伏線もなしに『地震で志望校は街ごとぶち壊れました。更に大阪・京都から大量に受験生がやってきて試験は大混乱でした。』と言う展開にしたら「作者なにご都合主義してんだ。てこ入れ必死だなwwwwwww」とか言われかねません。
 哲学さんの作品で、いきなり個人では及ぶことのないカタストロフが何の伏線無しにやってきたりするのはこの小学校の頃の体験が影響してるとは思います。まあ、物語世界でそんなことすると「伏線張れよ」とか言われるのですが。あるいは「『デウス・エクス・マキナ』いい加減にしろ」とか(笑)
 まあ、昔の体験のせいにしても仕方ありません。
 今思い返しても、なかなか楽しい小学生時代だったと思います。
 あの頃の頑張りを思い出して、哲学さんも小説作り頑張ろうと思います。
 ではでは。


 あああと、MacBook Air 11インチ欲しい!