ミクロとマクロの救済-セカイ系を振り返る-

 まずはこの動画を見て欲しい。

 悲嘆にくれる少女(「きみ」)に、「ぼく」が話しかけていく、とても素晴らしい感動的な動画。
 歌の歌詞にも沿っていて、とても感情移入しやすいと思う。
 では、合わせてこちらの動画も見て欲しい。

 こちらも同じ歌で、とても映像が美しくて、感動出来る動画だ。
 同じ歌で、別の映像――それはMADではよくあることなんだけど、この二つは決定的に方向性が違う。
 単純に、前者は「人対人」の「ミクロ」がテーマで、後者は地球という「世界」の「マクロ」がテーマになってる。
 勿論、歌自体は「ミクロ」の歌なんだけど、映像をマクロにしても、通じている。
 これはある種「世界」の擬人化だろう。「マクロの映像」を「ミクロの歌」を通すことによって視聴者に分かりやすく伝えている、と思う。
 多くの人は、たとえば「世界は素晴らしい、世界は美しい」的な美辞麗句を並べられても、あんまり感動できないと思う。対象が大きすぎて、視聴者から身近でなくなるので理解の外に行きやすい。勿論、ダイナミックな自然の映像を見れば「おおっ」と思うけれど、それでも体験を伴ってないと、それほど感動できなかったりする。
 ところが、そこで大自然や「世界」を「キミ」という人間フィルタを通して解釈することによってぐっと近づいて見ることが出来る。
 よくエコを訴えかけるようなポスターとかで、地球が泣いてる絵が書いてたりするのは、そうやって人々に親近感を与えるためだろう。
 やっぱり、人間は、人間の視点に立った方が分かりやすい。
 「世界を救う」という視点は分かりにくいので、「キミ=ヒロイン=世界」とすることによって、「ヒロインを救う=世界を救う」としてしまえば話が非常に簡潔になって分かりやすい。
 それを作品手法として成立したのがいわゆる「セカイ系」なのだろう。

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そんな訳で

 00年代の話をまとめようと思ったらいつの間にかこんな記事を書いてた哲学さんです。
 というか、次に書く小説のプロットを考えていて、「セカイ系とは何か」を考えて、その際に出てきた思考の一つをせっかくだからアウトプットした次第です。
 おかげで色々と理論的に飛ばしと飛ばしの記事になってしまいました。
 00年代てなんのかんので「セカイ系」の物語が主流の時代だったと思います。 
 で、その「セカイ系」やその他今までの物語スタンダードひっくるめてその「先」を見せてくれたのが「まおゆう」ですね。だからこそ、今年の一番は何か、と言われたら「まおゆう」が出て来るのでしょう。
 でで、来年で2011年です。
 00年代はおわり、10年代の開始です。(※哲学さんは00年代=2001−2010、10年代=2011−2020と考えてます。個人的見解ですけど!)
 10年代は、この先に行きたいです。
 「セカイ系」の先をどうすればいいのか。
 なんかこー、ここ数日何か閃きそうで、喉の奥に何かつまったような感覚がありまして。
 じゃあ、まず自分が『セカイ系』を書くならどんな話か、と考えたら上の二つの動画が浮かんだんですね。
 一つの歌で、片方は「キミ」を救って、片方では「セカイ」を表現してて。
 そこら辺から、こう、上手く何か出てきそうなんですが……まあいいや。
 とりあえず、来年は絶対に小説大賞を取る!
 頑張ろう!