困った話
つらつらと考えるが、やはり私は一人称が苦手である。
色々と考えたが、基本的に観察者の視点を崩さないのが問題なのだろう。
常に物語を俯瞰する視点にいる。
これが何をもたらすかというと、感情移入の拒絶だろう。
大抵の場合、物語の盛り上がりと共に登場人物への感情移入の度合いは増していくものである。
しかしながら、私の場合は物語がクライマックスに近づいても、登場人物の感情が高ぶっても――いや、昂ぶった場合は逆に今まで以上に登場人物を突き放すのである。
例えるならば、山があるとする。
普通ならば、山の事を知りたければ、山に足を踏み入れ、歩き回ればいい。
けれど、私は遠くから俯瞰し、望遠鏡で山を見る。
山を歩けば、ここにはこんなものがあったのかと次第に愛着が増し、更に奥へ奥へと進んでいきたくなる。
しかし、私はどれだけ山の事が好きになっても、その場から動かず、遠くから山を見続けるのである。そして、物語の進行と共に望遠鏡の遠近を調節するくらいである。
無論、利点もある。
山の中を歩いていては、自分の手の届く範囲・あるいは目の届く範囲しか知り得ない。山の中腹に居た場合、山の麓や、頂上の様子は知り得ない。
が、外から山を見ていれば程度の差こそあれ、山の麓・中腹・頂上の状態を同時に知る事が出来る。
大抵の物語というものは、例え、山を俯瞰する「三人称」の視点だったとしても、最終的には山の中に足を踏み入れて行く。山の中を歩き、外からでは見えなかった物を見つけ出す。
が、私はその「外からでは見えないもの」の影だけを描いて満足する。そこにそれがあると知っていながら、書かない。
山に埋まった宝を目の前にして引き返す。
私は登場人物達が感情が高ぶった時は大抵その結論をぼかす。例えば、登場人物の父親が死んだとして――、その子供は黙って何も言わずに泣いてその場を立ち去る。それで、その心の内を書かないままに物語を進行させ、後で爆発させる。
これは昔からある平凡な表現だが、私の場合はそれを多用する。これはよくない。
ひたすら山を望遠鏡で眺めるばかりである。
結果、登場人物達への感情移入を妨げる。
これには私の物語の作り方にも問題がある。
まず、世界観があり、そこでどの様な物語が展開されるかを考え、そしてその物語ではどういう風なキャラクターが出てくるかを考える。
つまりは、「世界観>ストーリー>キャラクター」である。
しかし、私が志向するライトノベルの基本は「キャラクター>ストーリー>世界観」である。
つまりは、優先順位の逆転。
私は、物語の進行を重視する。物語の進行を重視するならば、視点は俯瞰した方がよい。キャラクターの視点にしてしまうと、物語の行く道を見失い、ストーリーが迷走しやすいからだ。
無論、活きたキャラクターならば自ら物語を構成するものだが、どうやら私の物語の構成力では、ストーリーを面白い方向までねじ曲げるキャラクター性を作り得てないらしい。
なんにしても、「世界観>ストーリー>登場人物」と言う事は、「キャラクター」に一番力が入ってないということになる。力が入ってるとしても、「ストーリー」よりも比重は低いし、「世界観」と比べると錬度が下がる。
そうして考えていくと、私の話に出てくる登場人物達は「変な設定」とか「変人」は出てきても「非凡なキャラクター」はいない。
と、言う訳でキャラクターを練るために一人称の練習をしようとしたのだが――これがどうにも上手く行かなくて、今こんな文章を書いてる次第である。
元々私は、実際に行動している自分を分析する自分と、それを冷静に見つめる第三者視点の合計三つの視点を持つルルーシュのようなタイプの人間である。で、私の「主観」がこの第三者の自分の方に重きを置いているせいで、「主観」そのものが「自分を客観視している主観」の立ち位置にある。
だから、何も考えずにさらさらっと書いた文章が既に客観視点なのである。一人称なのに。
第一、いつも書いてる私の日記自体、どこか自分の事を他人事のように書いた文章である。私は自分の人生を語る時も他人事の様に語るし、うちの一族で起こったいざこざも、最近の身に起きた出来事も、みんな他人事の様に書く。
強烈に自己主張してるのはせいぜい「〜は面白かった」という感想くらいである。感想以外は本当に自己というモノが薄い。
いやまぁ、今書いている文章もかなり私の主観なのだが、自分を客観視した主観である。
なんにしても、ともかくは一人称を書く練習をしておかねばなるまい。