環境と人

 人はどれだけ先のことを考えて行動するだろう。
 今がよければ、未来の事なんてどうでもいい、なんて考える人は少ないと思う。
 とはいえ、その未来が「明日」なのか「来週」なのか「来月」なのか、「来年」なのか、はたまた「100年後」なのか。
 果たして自分が死んだ後の事まで考える人がどれだけいるだろうか。
 長期的な視野で見れば自動車なんて廃止にすべきだし、原子力発電もやめるべきだろうし、フロンガスなんて作るべきではなかった……と環境学者はいうかもしれない。
 とはいえ、人間便利な生活を捨てられない。石油は掘り続けるし、放射能廃棄物は増えるし、捨てるのに金のかかる家電製品は夜中にこっそり捨てられたりする。理不尽な世の中である。
 世界は循環し、人間も大局的に見ればガイアという巨大な生命体の一部でしかない。大気とは地球の呼吸であり、マグマとは地球の血潮であり、地球の上に住む生命体達は地球の細胞や大腸菌とも考えられる。
 基本的に西欧文化が創り出す者は自然を押さえ込み、排除することが主な目的として創られている。西欧文化は「人と自然の闘いだ」とよく言われる。
 しかし、東洋の文化は「人と自然が共に歩いた歴史」とされていたはずだ。少なくとも日本なら、江戸時代までの文化ならば――紙と木で出来た家屋ならば壊れても自然に還元されたし、夏は涼しく、冬は暖かいという季節にならった作りがなされていただろう。
 果たして自分という存在を考える時、多くの人はどれだけの規模まで考えているだろうか。ゴミをポイ捨てする際にその捨てた物が後々どれだけの影響を与えるか考えたことがあるだろうか。電気のつけっぱなしがどれだけのエネルギーを消費し、紙くずを増やすたびにどれだけの樹が伐採されることになるか。自分一人くらい大丈夫、と空き缶を近くの野原に捨てれば、他の人は「みんなやってることだから」と次々とその野原にゴミを投げ捨て、瞬く間にゴミの山がその野原に出来る事になる。
 そして、「うちの街だけだ」と思ってたらそれが全国各地で行われ、気が付けば富士山ですらゴミの山とされるくらいになる。
 かつて、富士山は世界自然遺産に登録しようとしたが外された。その理由は登山者の捨てたゴミなどで汚く、とても自然遺産に登録出来ないものだった――らしい。無論、それだけが理由ではないだろうが、そのせいで決して並ぶ物がない山――「不二の山」と言われた富士山は世界自然遺産に登録されなかったのである。(「不二」、とはつまり「二番ではない」ということ。つまりは、常に一番であるということ。後、竹取物語では天に最も近い山(地上で一番高い山)で不老不死の薬を焼いたから「不死山」とよばれた)
 個人の事は確かに大事だが、やはり自らが世界の一部であると言う事も自覚せねばならない。日本人なのだから、税金は納めるべきだし、選挙には関心を持つべきだし、自分の住む地域の他の人に迷惑を掛けないようにしなければならない。
 それじゃ、宇宙はどうなのか。
 こないだこんな事があった。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/905522.html

 要約すると、中国がミサイル実験して人工衛星を爆破したのである。なんてこったい。ガッデムである。
 「プラネテス」好きなら速攻で
デブリが出ちまうだろうがぁぁぁぁぁ」
 とか
「オィィィィィィィィィ、なにやっちゃってんのぉぉぉ! ケスラーシンドロームが起こるだろうがボケェェェ」
 とか思うに違いない。(後者は銀魂好きかもしれない)
 なんにしても、人間は世界と繋がってるのである。
 これまた悲しい事に、個人がどれだけ頑張っていいコトしても世界はなかなかいい方向にいかないが、個人が悪い事を少しでもすれば世界は簡単に悪い方向へと向かってしまうのである。
 分かりにくければ、こう言い換えよう。一人がイジメを止めようとしてもなかなかイジメは消えないが、一人がイジメを始めればすぐにイジメは加速度的に増える。一人がポイ捨てを注意してもなかなかポイ捨ては消えないが、一人がポイ捨てをすればみんなもポイ捨てを始める。チームプレイは一人が頑張ってもなかなかいい結果が出ないが、一人が怠けると簡単に悪い結果が出せる。
 世の中はよくなりにくく、悪くなりやすい。
 故に、一人一人のモラルがとても重要となってくる。
 一人の過ちは今日明日は大したことなくとも、長期的に見て世界を悪化させる。
 無論、誰しも完璧でないが故に失敗は必ず起きる。それを責めても仕方ない。
 だが、進んで過ちを犯す必要はない。
 他人に迷惑を掛けない。
 それは日本人の美徳だったはずだ。
 他人を省みる余裕はなくとも、迷惑を掛けないようにもっと努力すべきではないか……と思う。